書評

小説にとって切実な問い

文: 陣野 俊史 (文芸評論家・フランス文学者)

『心はあなたのもとに “I’ll always be with you, always”』 (村上龍 著)

 「文學界」の連載中、ときどきこの小説を読んでいた。読むたびに印象が違った。あるとき、主人公たちは二〇〇二年の日韓ワールドカップの開幕戦を韓国で観ていた。あるときは投資ファンドの話ばかりが書かれていた。メールのやりとりが延々と続くときもあった。トータルなイメージが結びにくかった。一読して気づくのは、この小説が、近年の村上龍氏の小説とは書き方が違っていることだ。『半島を出よ』や『歌うクジラ』では、緻密な世界像が最初から存在する。世界は全体が呈示され、細部まで書き込まれていく。

 だが『心はあなたのもとに』は、冒頭で主人公の香奈子が死んでしまったことが明かされる。つづいて、彼女との出会いから死までの数年が時間軸に沿って線的に描かれる。

 主人公は投資ファンド会社の経営者、西崎健児。家庭があり二人の娘もいる。おおむね仕事も順調で、潤沢な資金も財力もある。西崎はある晩、定宿の豪華なホテルに二人の風俗嬢を呼ぶ。「サクラ」という名の女との付き合いが始まる。「サクラ」は途中から香奈子という本名を明かす。香奈子は一型糖尿病を患っている。一型糖尿病とは、自己免疫疾患でインスリンが産生されないため、発症すると注射や専用ポンプでインスリンを注入する必要がある。

 この長い物語の前半、主人公たち(西崎と香奈子)は、恋愛の明るさ、性愛の魅力、旅行の楽しさ、そうしたものに浸っている。ときどき病気の暗さが介入するが、香奈子は入院し、病気と闘い、そして退院する。香奈子の心理は、主として彼女のメールに綴られている。

心はあなたのもとに
村上 龍・著

定価:1700円(税込) 発売日:2011年04月14日

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