戦後の日本を代表する建築家は、大正二年(一九一三年)生まれ。昭和十七年(一九四二年)東京帝国大学大学院在学中に、日本建築学会が主催する大東亜建設記念造営計画設計競技に「冨士山麓と皇居を結ぶ大東亜道路を都市軸とし、首都と戦没者のための忠霊神域を作る」という壮大な構想で一等入選。一躍有名となる。大学院修了後、建築学科助教授に就任、「丹下研究室」を発足させる。
主要な設計として、広島平和記念公園、東京カテドラル聖マリア大聖堂、代々木第一体育館、東京都庁舎などがある。
〈一年に一作、出来上がると必らず話題を呼び、その作品に接した人々は、そこに具現された途方もなく大きな夢と、底知れぬ生命力に目をみはる。国内はもとより海外での人気も大変なもの。これもあくことを知らぬ創作活動の所以であろう〉(「文藝春秋」昭和四十年二月号グラビア「日本の顔」より)
写真は当時建設中だった、東京・文京区関口の東京カテドラル聖マリア大聖堂の現場にて撮影。平成十七年(二〇〇五年)没。