本書は、戦前・戦後を通じた昭和日本の「国家戦略と情報」を考える上で、絶好の評伝となっている。また、辰巳栄一という人物について、これまでは「歴史の脇役」として戦前・戦後の昭和史の一局面で時として顔を出し短かく言及されることはあったが、本格的な評伝が書かれるのが、なぜ「これほど遅く」なってしまったのか、とさえ思える重要な人物である。そこに、日本人の戦略思考やインテリジェンス問題への関心の低さ、敢えて言えば国民としての「政治的民度の低さ」を指摘しない訳にはゆかない。
辰巳栄一については、従来、戦前期の陸軍部内で数少ない英米派として、日独伊三国同盟など枢軸外交へ傾斜する軍主流派に抵抗した人物として、また戦後は首相・吉田茂の影のアドバイザーとして再軍備問題に関わったことぐらいしか知られてこなかった。しかし本書を始めとして近年、とりわけ二十一世紀になってから昭和史の研究はめざましい展開を見せている。とりわけ、その一つに情報(インテリジェンス)が昭和史の方向を決定づけた重要な要因だったことへの認識が少しずつ深まってきたことが挙げられる。また、そのための各種史料が今日、ようやく広く利用可能になってきた。本書も、そうした大きな流れの上に立っており、その点でも、再び「大きな思考」が求められ始めたこの国の行方を考える際に、重要な一書と位置づけられる。
本書を手に取ったとき、「吉田茂の軍事顧問」と銘打ってジャーナリスト出身の著者がものした辰巳栄一伝であるからには、殆ど専(もっぱ)ら戦後、とくに吉田内閣の対米安保(いわゆる再軍備)問題が主テーマとして書かれているのだろうと予想していたが、それは見事に裏切られた。序(・終)章を除いて全十章のうち、六章までが戦前・戦中期で占められ、戦後部分は四章という割り振りになっている。これは何を意味しているのだろう。
たしかに主人公の辰巳栄一は日本が敗戦を迎えたとき、すでに齢五十に達していた。一方、日本が占領を脱し吉田が首相の座から降り、辰巳が活動の場から退くのは、その僅か九年後(昭和二十九年)のことだ。しかし本書を貫くテーマが国家の進路を決定する広義の情報という点にあるとしたら、辰巳を語るときこの配分がきわめて重要なのである。なぜなのか。それは、「情報(インテリジェンス)とは人間」なのだ、ということに関わってくるからである。とりわけ、激動する世界の中で国家がどの方向へ向うべきなのか、を考える国家戦略という営みに必要なのは、国の舵取りをする人間の知性(インテリジェンス)の構造に関わってく る。そしてその体得やそうした知性を備えた人間集団の育成には何十年という年月がかかり、時には敗戦といった「歴史の悲劇」と呼べるような劇的な経験が必要なのである。
よき情報マンとなるには、それに適した人格というものが求められる。昭和の陸軍軍人の中には、いわゆる「皇道派」と分類される人脈や集団の中に、しばしば秀れた情報マンが見いだされる。それに比して「統制派」に属するエリートは、なぜか押しなべて“情報音痴”と思われる人物が多いのである。勿論(もちろん)、ここで言う「皇道派」とは天皇絶対主義を掲げて突出した直接行動に傾く過激派という意味ではない。ずっと穏健で知性的な人々、たとえば辰巳が私淑(ししゅく)した同郷の大先輩、武藤信義を始めとして、小畑敏四郎など、いずれも若い頃から対ロシア情報で頭角を現わし、満州事変以後の日本がもし南進すれば「支那の泥沼」に足をとられ必然的に英米との対立に向い、そこをソ連に背後から衝かれるというシナリオ(そしてその後の日本が現実に辿った道)を早くから恐れていた人達のことだ。実際、この大局を見据えていたのは、「広義の皇道派」に属するとされる情報将校たちであった。つまり、日本を破滅に追いやった責任はこの点を見据えられなかった統制派の盲目にこそあったといえよう。
戦間期の世界には、すでに底流として英米vs.ソ連という「冷戦構造」が醸(かも)し出されていた。その谷間に置かれた日本は、戦前から、そのいずれかを選ぶしかないという選択に直面していたといえる。そこへ、「ナチス・ドイツ」という第三勢力(と見えたもの)がにわかに現われ、その粧いの目覚ましさに幻惑された日本人が道を誤ったのである。そしてその「ドイツ」という幻影が消えてなくなった戦後、よりすっきりと見えるようになった冷戦の構図の中で、日本が英米つまり西側陣営を選択することになったのは、きわめて自然なことなのであり、吉田や辰巳は戦前から、この「勘どころ」をしっかり押えて見失っていなかったということなのだ。
戦後の誤った「昭和史」によって「皇道派」として十把一からげにされてきた人々の中には、成熟した人間的感性に立脚して、こうした「勘どころ」をしっかり押さえた真の情報マンが少なくない。昭和十三年にドイツやソ連から追われシベリア経由で満州国に殺到してきたユダヤ難民を人道的見地から受け入れたことで有名な樋口季一郎中将(当時はハルビン特務機関長)は、そうした「広義の皇道派」に属した人物だった。本書が詳しく紹介するように辰巳を薫陶した本間雅晴も「ヒューマニストのインテリ軍人」だったし、戦後、辰巳と手を携えて日本のインテリジェンス再建に取り組んだ土居明夫もそうした情報マンの系譜に属している。
そう言えば、吉田茂も、統制派の計画経済や全体主義を心底憎み、終始、「皇道派系」と目された知性的な軍人にシンパシーを感じ、しばしば行動を共にしたものである。「統制派の典型」といえる東条英機に見られたような、官僚的で硬直した知性、これが日本の進路を誤らせただけでなく、およそ情報という営みにとって「天敵」といってもよい日本の国民性の宿痾(しゅくあ)なのである。つまり、それは今日もこの国の進路を脅かすものとしてあることを忘れてはならない。
もう一つ本書のもつ重要な価値として、吉田茂が首相の座を退いて十年後には、憲法改正ないし正面からの日本の再軍備を怠ったことを深く反省し、そのことを悔やみ続けていたことを明確な史料で確証していることだろう。それに伴って従来、言われてきた、吉田が在任中、「戦力なき軍隊」などと称し憲法改正を回避し、日本の防衛・安保政策の根本的な歪みを生んだ裏には、その路線に協力した辰巳栄一という人物がいたからだ、という誤った評価を明確に退けたことも本書の大きな貢献であろう。辰巳は終始、吉田に正面からの再軍備を進言し続け吉田との論争を繰り返したこと、またこの点では服部卓四郎らの旧軍人グループとの間で根本的に対立していたわけではなかったことも、本書で明らかにされている。
では、昭和二十七年四月二十八日にサンフランシスコ講和条約が発効し、日本が晴れて独立主権国家の地位を回復したあと、何ゆえ吉田は直ちに憲法改正に取り組まず、退陣までの二年半という年月を無為に過し、日本の未来を空費することになったのか。これは今日まで続く戦後史の「大きな謎」と言ってよい。マスコミや野党の反発を恐れたという説明は成り立たないだろう(当時、国民世論は改憲論が圧倒していた)。ライバル・鳩山一郎への対抗心から、と言ってしまえば吉田はうんと卑小な存在になってしまう。この謎については、さらなる解明が待たれるところだ。
辰巳栄一をその一章で取り上げ本書もしばしば引用する有馬哲夫氏の『大本営参謀は戦後何と戦ったのか』(新潮新書、平成二十二年)は、その「あとがき」で、刊行直前に起こった尖閣諸島沖での中国漁船衝突事件を取り上げ、「自国の意思だけで自衛権を発動できない国は、自国の領土に対する主権を主張するのにも他国の顔色を窺わなければならない。/これらの事件を見て、筆者は『大本営参謀』たちが戦後抱き続けてきた思いをより深く理解できるように感じた」とし、「戦争放棄を自衛力放棄と履き違えて、なすべきことをなさず、今日の惨状を招いてしまったわれわれに、『しなかった』と彼らを責める資格はないのではないか」と結んでいる。我々に吉田の不作為を責める資格はない、ということか。それなら、我々は「今日の惨状」を一日も早く克服するために一層大きな努力を傾注する責任がある、ということになろう。
とはいえ、本書の単行本の刊行(平成二十三年七月)や有馬氏の「あとがき」が書かれて以後、日本の防衛・安全保障を取り巻く情勢はさらに一段と悪化し、今や風雲急を告げている。それでも、憲法の改正は「未だ成らず」なのである。常識という柔軟な知性を失った硬直した精神が昭和の日本を滅ぼした。今日、その同じ精神が「平和憲法を守れ」という合唱となって今だに徘徊している。
本書がこれ以上ないほど明確な形で明らかにしたように、すでにはるか以前に吉田茂自身が否定し去っていた軽武装・経済優先を唱える「吉田ドクトリン」が、今や深刻に平成の日本を脅かしている。やがて「歴史の審判」が下されようが、その時、再び廃墟から立ち上る日本に、辰巳栄一のような人がいるだろうか。そのことを本書の終章は鋭く問いかけているように思える。
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