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傾国子女

島田雅彦

傾国子女

島田雅彦

くわしく
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1章 突然目の前にあらわれては散った美女

 神楽坂通りに面した毘沙門天の境内の石段に座り込んだその人は、通りを行き交う人々を品定めするように目で追いかけていた。遠目には三十五歳くらいに見えたが、それは着ている白いワンピースと色白の肌の効果だったようで、近くで見ると、白髪が目立ち、かなり年のいった人だとわかった。昔は誰もが思わず振り返る美女だったに違いない。佇まいにはその名残りのオーラが漂っていた。流行りのコトバでいえば、「枯れ美女」か?

 七海は彼女の前を横切り、道路の反対側に渡り、坂を下って行こうとしたが、うなじのあたりに何か強い気を感じて、振り返った。その人は立ち上がり、何かいいたげな表情で七海を見つめていた。そこに四輪駆動車が坂の下からかなりのスピードで走り込んできた。その人は車に気づかないのか、七海を追いかけるように道路を横切ろうとしていた。危ない、と思った瞬間、餅をついたような鈍い音がし、その人は宙を舞っていた。

 通行人たちはコトバを失い、その場に凍りついていた。一方通行の狭い道を時速六十キロ前後で走ってきた車にはねられたのだから、無事で済むはずがないことは誰の目にも明らかだった。しかも、彼女は体操選手のように伸身二回宙返りをして、地面に叩きつけられたのだ。 一番近くにいた七海は、仰向けに倒れているその人に駆け寄った。肘は逆向きに曲がり、両脚は「ル」の字に折れていた。即死かと思われたが、まだ息があった。すぐに携帯で救急車を呼んだ。 女性をはねた車はそのまま走り去ってしまった。通行人の若い男が走って、車を追いかけると、薬局の店主だろうか、その場にいた白衣の男が車のナンバーを控えた。誰もがひき逃げだと思った。非常識なドライバーに憤慨する声があちこちで聞こえた。だが、七海の目には、女性自ら、疾走する車に身を投げ出したように映った。

 七海が女性の顔を覗き込むと、蚊の羽音ほどの声だったが、女性はしっかりと七海の顔を見据え、こういった。

――あなた、私の若い頃に似ているわ。私の話を聞いてくれる?

まるで、自分がはねられたことに気付いていないかのように、呑気な口調で。

――話さない方がいいです。今、救急車が来ますから。

――もういいの。このまま無縁仏になるから。それより私の話を聞いて。懺悔をすれば、この身の曇りも晴れる。私の名前は白草千春……

――シラクサ、チハルさんですね。

 七海がその名前を確かめると、女性はほっと吐息をつき、空を見上げた。ややまぶしそうに目を細め、口を開いたかと思うと、そのまま動かなくなった。

 それから間もなく、救急車とパトカーが来た。救急隊員が二人、女性に歩み寄ってくる。心拍と呼吸が止まっているのを確認すると、即座に心臓マッサージと自動体外式除細動器による蘇生を試みた。その一部始終を七海は眺めていたが、彼女の顔が見る見るうちに若返り、遠目に見た時と同じ三十五歳くらいの顔に戻った気がした。皺が寄り、目尻が下がり、顎がたるんだその顔の下には、若かりし頃の美貌が隠されていて、それが死の間際になって、露わになったようだった。人は死ぬと、煩悩から解き放たれ、優しい表情になるそうだ。心の濁りが取れれば、若返るともいう。それが七海の目の錯覚だったとしても、その人はこの世を去る直前に、ありし日のことを思い出し、一瞬若返ったに違いない。

 七海は目撃者の一人として警察から事情聴取を受けたが、事故当時の状況と被害者から聞いた氏名以外には話すこともなく、三十分後には神楽坂を離れた。

 その女性、白草千春は最寄りの逓信病院に搬送されたが、その日の午後四時四分に死亡した。七海はそのことを深夜のテレビニュースで知った。

2章 あの「枯れ美女」がわたしに取り憑いている!?

 それから一週間後。

 恋占いがよく当たると評判の占い師のところに一緒に行こう、と同僚の桃子に誘われた。谷本ヘレンの名前を知らない女は男に興味がない。

 誰がいったか、そういうことになっているそうだ。幸い、七海はその名前を聞いたことがあった。一年先まで予約で埋まっているのだが、運よくキャンセルが出て、急遽観てもらえることになったというので、七海は二つ返事で付き合うことにした。

 谷本ヘレンの「アトリエ」は赤坂郵便局裏の雑居ビルの元歯科医院だったところにあって、予約客用の待合室にはその名残りがあった。予約の時間より五分早く着いた桃子と七海は、何をいわれても、あとで正直に報告し合おうね、と約束した。前の客が奥の「診察室」から出てくるのをチラリと横目で見た二人は思わず、互いに顔を見合わせた。浮かない顔をして出ていったその客は、不倫がもとで辞職した、元国会議員だった。国会議員もお忍びで恋の悩みの相談に来るとは、かなり信頼できると考えていいと二人は期待した。

 予約を取った桃子が先で、便乗した七海が後から観てもらうことになった。ここ二年間というもの、恋も仕事も鳴かず飛ばずで、ヘレンの助言をきっかけに、大きく羽ばたきたいと、今年で三十になる七海は漠然とした期待を抱いていた。十五分ほどして、桃子がやけにさっぱりとした表情で、「診察室」から出てきた。一カ月以内に未来の流れを変える相手と出会うでしょう、と極めて具体的なことをいわれたという。この先一カ月、そわそわ、きょろきょろと、思い切り挙動不審になる桃子の様子が目に浮かぶようだった。

 入れ替わりに七海が「診察室」に入る。窓には遮光カーテンが引かれ、白い漆喰の壁には雨雲のような陰影が張りついていた。谷本ヘレンは二本の蝋燭の火が揺れるテーブルの向こうに座っていた。ほとんど日に当たらないのだろう。石膏みたいに白い顔が薄暗闇の中で光っていた。年齢は四十代後半と聞いていたが、自分とあまり年が違わないようにも見えた。肩口のあたりから漂う妖気に七海は思わず身構えてしまった。助手の人に椅子を勧められ、七海がヘレンの前に座ると、彼女は身を乗り出し、まじまじと七海の顔を覗き込んだ。自分の顔に何かついているのかと思い、七海は思わず頬に手を当てた。

 ヘレンはため息交じりに呟いた。

――あなた連れてきちゃいましたね。

――いえ、私が連れてきてもらったんです。

――違うのよ。あなたのここについているのよ。

 ヘレンは骨ばった手で自分の右肩を示す。七海は「え」といって、右肩越しに振り返る。視線の先にはただ壁があるだけ。

――何か見えるんですか?

――女の人の霊。その霊は自分と似た女を選んで、取り憑くんです。

――自分とよく似た女ってどんな女ですか?

――一言でいえば、業の深い女。

――ひどい。私って業が深い女なんですか?

 よく当たるというから、来てみたものの、初対面の相手にいきなり霊がついているなどと脅されるとは思わなかった。この上、除霊の壺や印鑑を買えなどといったら、暴れてやる、と七海は思った。

――あなたについているのは千春さんの霊です。

――はい?

――あなた、最近、誰かが死ぬ現場に居合わせたりしてません?

 それをいわれて、背筋に寒気が走った。確かに一週間ほど前、神楽坂の毘沙門天のそばで交通事故の現場に居合わせた。もし、そのことをいっているのなら、ドンピシャリだ。

――はい。美人のおばさんが車にはねられるのを見ました。

――その人よ。白草千春。

 あの「枯れ美女」は自分の名前を七海に告げて、死んだ。行きがかり上、遺言を聞かされたが、彼女がどういう人なのか、七海は全く知らない。

白草千春
本書の主人公。絶世の美女であるがゆえに、波瀾万丈な色恋道を突き進む。
「私は自分の人生がどの方向に転がろうとしているのか、全く読めません」
絵・ヤマザキマリ

――その人は先生のお知り合いなんですか?

――ええ、まあ。若い頃にちょっと。

――その人の霊が私に何の用があるんですか?

――彼女はまだこの世に未練があるのかも。叶わなかった望みを叶えるために、あなたに乗り移ったんでしょう。千春さんは夜毎、あなたの夢枕に立って、身の上話をするかもしれません。

 確かに白草千春は七海に「私の話を聞いて」ともいった。

――お祓いしてください。気持ち悪いから。

――まあ、そういわず、話をお聞きなさい。きっとこれからの人生の参考になる。千春さんはその道を極めた人だから。

――その道ってどの道ですか?

――色恋の道です。恋にお悩みでしょ? 幸せになりたいんでしょ。

――ええ、まあ。

――千春さんは誰よりも深く恋に悩み、幸せを求め続けた。人は彼女を淫乱とか、欲深い女とか、地雷女などというけれど、自分に正直に生きれば、誰でもそうなる。

 

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