クレージーキャッツ、ザ・ピーナッツ、沢田研二に布施明、森進一、小柳ルミ子、そしてキャンディーズ。あまたのスターを抱え、昭和三十~四十年代の芸能界に君臨した「ナベプロ」の創業者である。
昭和二年(一九二七年)生まれ。敗戦時、早稲田大学に在学中だった晋は、生活費を稼ぐため進駐軍相手のジャズバンドを結成。ベースを演奏しつつリーダーとしてマネージメントに才覚を発揮、昭和三十年に渡辺プロダクションを設立した。
専属契約したタレントの仕事を差配するだけでなく、月給制を導入して生活や身分を保障するという全く新しいシステムと、時代の潮流を読み、大衆の需要を読み取るセンスによって、ナベプロは急成長する。
当時は「電気紙芝居」と呼ばれて軽視されていたテレビに目をつけ、その草創期に斬新なアイデアと抜け目のない経営で、番組やレコードの原盤制作、後には映画にも手を広げ、黄金期を迎えた。「シャボン玉ホリデー」や「ザ・ヒットパレード」、「スーダラ節」などはすでに伝説的だ。
だが晋の独裁体制と、タレントと経営者の乖離、現場との齟齬などから、所属スターや有能な社員が次々と離れ、会社は翳りを見せ始める。そこにガン闘病が追い討ちをかけ、急速な落日の中、昭和六十二年、五十九歳で生涯を閉じた。世の中ではマイケル・ジャクソンが来日し、おニャン子クラブが解散し、小泉今日子やチェッカーズがヒットしていた頃だった。
写真はその前年、藍綬褒章を受けた際に「週刊文春」で自分の経歴を語った時のもの。病後の衰えは隠せないが、洒脱で頭の回転がよさそうで、何より人好きで人懐こい感じがよく出ている。
ナベプロの敗因は、晋のセンスが古くなり、旧態依然にこだわったことと言われているが、この語りの中で、これからは海外で売れる日本独自の娯楽ソフトの開発、また国内向けには中高年向けのマーケット開拓が必要だ、と述べている。三十年前の先見の明に驚かされる。
渡辺プロはその後幾多の改変や改革を経てきた。この多様化の時代を、晋が今生きていればどう先取りするだろうか。