「幕末・明治の日本人はたいしたものである」。そう始まる「幕末の発明王・からくり儀右衛門」はコクがあります。一部しか知らなかった儀右衛門が無私の人で、多岐にわたって活躍したことを知らされるのです。著者が文庫版あとがきで言う通り、まさに「生涯を知っておきたい人物」で、コンパクトにまとめられていますので、どうぞその生涯をご一読ください。
「武者小路実篤の父のことば」にはホロリとしました。ごく短い文章なのですが、これがいいのです。「実篤は二歳で父親を亡くしている。病気であった。実篤の兄は生まれつきの優等生。病気の父の枕元を静かに歩いた。だが実篤は暴れん坊。ドタバタ歩いた。母が静かに歩くよう注意すると、父は言った。『元気に歩いているのを喜んでいたのだ。しかるな』」。実篤は母から父のこの言葉を聞かされて育つのです。どうです、グッとくるじゃありませんか。
あとがきによると、著者は書物蔵の中で過ごすことが多いと言います。そして史書を通じこの国の歴史をひもとくうち、しっかり生きた人や美しい人生をまっとうした人物を目にします。そしてそういう人物や事績を、この人は忘れてはならない、このことも忘れてはならないと思います。それが本書に結実したわけですが、読者からすればありがたい限りです。備忘録というと、ちょっとしたメモと受け取りがちですが、とんでもないことです。本書には日本人として忘れてはいけないことがあふれているのです。
著者は我々の楽屋でも有名人です。一気にその名を高めたのは『武士の家計簿』であるのは確かですが、それ以前も以後も、新刊が出る都度、コンスタントに名が挙がります。落語家たちは口々にこう言います。「勉強になるよな」「うん、助かる」と。そうです、著者の作品は落語家にとって参考書であり虎の巻なのです。
江戸に始まり、明治中頃に今日の形になったとされる落語という芸能には、実は相当いい加減なところがあります。俗に徳川300年と言われる江戸時代をひとくくりにし、「えー昔は……」などと大ざっぱな表現をすることさえあるのです。その点、著者の作品は落語の裏付けとしてうってつけです。知らずにつくウソと、知っててつくウソの違いと言ったらいいでしょうか、お客様から疑問が出た時、答えが変わってくるのです。
いや講釈師にこそ著者の作品はふさわしいかもしれません。彼らは実に大胆に歴史をねじ曲げます。実在したかが疑われる人物、例えば森の石松をあたかも歴史上の人物であるがごとくにテレもせず語るのです。彼らは知らずにウソをついている可能性があります。
「講釈師見てきたようなウソをつき」
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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