「下手も絵のうち」と語った熊谷守一(くまがいもりかず)は、明治十三年(一八八〇年)岐阜県生まれ。父は初代岐阜市長で衆議院議員もつとめた熊谷孫六郎。裕福な家庭に生まれたが、終生、経済的にはめぐまれないまま画家生活を送った。
明治三十三年、東京美術学校に入学。同級生に、青木繁や山下新太郎がいた。明治四十二年、自画像「蝋燭」が文展に入選する。
大正十一年(一九二二年)、四十二歳で結婚。五人の子供に恵まれたが、生活は困窮した。次男陽が二歳のとき、肺炎にかかり、医者にすぐにみせることができず、死なせてしまった。陽の亡骸を題材にした「陽の死んだ日」を昭和三年(一九二八年)に発表する。
昭和七年、のちに池袋モンパルナスと呼ばれるようになる、豊島区千早に移り住む。年齢を重ねるにつれ、「日本のフォービズム」といわれる作風から、シンプルな抽象画に接近していった。晩年は自宅からほとんど外出することなく、パイプをくゆらせながら、石ころや草花、猫や虫などを飽くことなく眺めて過ごした。こうしたごく身近な自然を観察し続ける日常の中から、「猫」「雨滴」「赤蟻」などの傑作がうまれた。また、五十歳を超えてから始めた書や墨絵にも才能を発揮した。
やがて広く画壇に名を知られるようになると、世間との関係を煩わしく思い、文化勲章の内定を辞退して話題を呼んだ。「画壇の仙人」とよばれ、昭和五十二年、九十七歳で亡くなった。写真は昭和四十九年撮影。
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