『天皇さんの涙』は一九九七年から著者が執筆した「文藝春秋」巻頭コラムの集成、その四冊目である。一冊目は通しタイトル『葭(よし)の髄(ずい)から』を踏襲した。二冊目は『人やさき 犬やさき』、三冊目は『エレガントな象』と命名された。本書には、二〇〇七年三月号から二〇一〇年九月号まで、著者八十六歳から八十九歳までの分を収録した。
前々作『人やさき 犬やさき』に、二〇〇二年、四十七歳で突然亡くなられた高円宮の「伝記刊行委員会」に委員のひとりとして出席したときの挿話がある。錚々たるメンバー中に小説家はひとりだけだったから、乞われて伝記風作品を書くにあたっての心構えのようなものを話すことになった。
著者は概略つぎのような話をした。
「第一は、説明せずに描写せよといふことです。美しい花、美しい花と、いくら書いても、読む方は美しいと感じません」
「第二は、捨てる勇気を持てといふことです。行き届いた取材をして、資料や関係者の談話が豊富に集まれば集まるほど、その一つ一つに愛着が生じ、捨てるのが惜しくなります。だけど、これを片つ端から取り入れてゐると、味が濁るのです」
「第三は」「本すぢから脱線して、脇道へそれて道草を食ふのです」「長い道中、その道草が馬を養ひ、馬の体格を豊かにします」
そろそろ終りにするつもりでふと見ると、委員たちの何人かがメモを取っている。
「こんな晴がましい席で、光栄といふか、面映ゆいやうな情景だつたが、驚くと同時に「ははア」と思つた。委員会に名前を列ねる各界の人々、多くが私よりずつと新しい世代で、私どもが若年の頃有形無形の教へを受けた昔風の、文士らしい文士をもう知らないのだ」「それで、私どもには半分常識の、昔、耳にたこが出来るほど吹きこまれた古い執筆心得が、今どき却つて新鮮に聞えるらしい」
私にも新鮮で、この部分をとくに熟読した。同時に、師承の文学伝統を少なからず軽んじていた自分を恥じた。
このシリーズ全体を貫くものは古い文士の、その古さへの誇りである。
もうひとつ印象的だった事柄をあげれば、歴史的人物、とりわけ敗戦時に首相をつとめた鈴木貫太郎とその妻への高い評価だ。
著者は一九七九年から一九九〇年まで、都合八十四回にわたって行われた旧日本海軍将校たちの「水交座談会」のうち、10数回に陪席傍聴してノートを取った。ほぼ同時期の、百三十一回におよんだ「海軍反省会」はある程度知られているが、「座談会」の方の記録はまだ整っていない。「座談会」は「反省会」と異なって敗戦の責任を問うのではなく、中央の要職にあったり在外駐在武官だったりした海軍将校たちが、日常どんな仕事をしていたかを語ってもらうのが目的であった。
終始司会をつとめた大井篤元大佐が、鈴木貫太郎について語っている。
「(海軍側の極秘終戦工作を担当した高木惣吉海軍少将でさえ)鈴木総理に全面的信頼は置いてゐなかつた。言ふことがその日その日でがらりと変るから」「卓叩いて東條そつくりの徹底抗戦論を唱へたりするんだもの、あの真に迫つた韜晦ぶりには高木さんですら最後までだまされてたのかも知れません。その一見態度曖昧な首相が、時到るや阿呍の呼吸で陛下の「聖断」を導き出し、急転直下一気呵成に戦争終結の大業を成し遂げてしまふんです」
一九四五年四月、新任の鈴木貫太郎首相は敵国大統領ルーズベルト死去の報に接すると、弔電を打った。ドイツでは誰も考え得なかったことをあえて実行した。海軍式のフェアプレー精神の発露というにとどまらず、これも「終戦工作」への遠い布石であった。
この九年前の一九三六年二月二十六日早朝、侍従長であった鈴木貫太郎は反乱軍に自邸で襲われ、銃弾四発を受けた。うち四発は頭部と心臓部を、貫通または盲貫していた。
「トドメ、トドメ」の声に、「武士の情けです。とどめだけは私に任せてください」と襲撃部隊の指揮官、安藤輝三大尉に堂々かけあって承知させたのは、たか夫人であった。兵らが立ち去るやいなや、夫の止血措置をほどこした彼女は、宮中に電話して医師派遣を要請した。
たか夫人は二十二歳のときから、三十一歳で当時海軍少将であった十六歳年長の鈴木貫太郎の後妻となるまで、迪宮(みちのみや)裕仁親王(のちの昭和天皇)の御養育係をつとめ、親王の信頼篤い人であった。鈴木貫太郎など重臣を殺傷したことのみならず、たか夫人を無体に苦しめたことへの怒りも、二・二六事件の反乱軍に対する昭和天皇の態度の根底にあっただろう。
文字どおり九死に一生を得た鈴木貫太郎は戦争末期、七十七歳の首相として、大井篤大佐の言葉を借りれば「俗に言ふ政治力なんかとは次元のちがふ力」を発揮して終戦に持込み、民族の滅亡をきわどく回避することになるのだが、この奇跡はたか夫人によって準備された。