シリーズの第二冊目『人やさき 犬やさき』には、司馬遼太郎『坂の上の雲』の中に探し物をして、つい八冊全部を読んでしまったという一節がある。『坂の上の雲』は伝記的作品執筆の要諦のひとつ、「道草」の雄大さを特徴とする作品だが、著者の探し物はその六冊目で見つかった。明治三年(一八七〇)生まれの著者の父は、ロシア語通訳官として日露戦争に従軍したが、その所属は秋山好古少将麾下の騎兵第十四聯隊であった。
父の名が出てくるわけではない。ただ「関連する一、二の些末事が、作中どう書いてあるか確かめて置きたかつた」と著者はしるすのだが、父親が日露戦争に従軍したという歴史的事実に読者としてはまず圧倒される。つぎに、明治改元の翌々年に生まれた父の息子が大正九年(一九二〇)の生まれで、まだ近代化後二代目でしかないと思うとき、明治は遠いのか近いのか考え込んでしまうのである。
「文藝春秋」連載の十三年間も短くはない。
同欄連載十年におよんだ前任・司馬遼太郎は一九九六年二月に突然亡くなった。その一年後に執筆依頼にきた社長は、七十六歳の著者が、いつまで連載すればいいのかと尋ねると間髪を入れず「蓋棺録」まで、つまり死ぬまでと答えた。十三年間の連載中に編集長は五代かわった。しかし筆者はかわらなかった。
阿川先生の汽車好きはつとに知られるところだが、船好きでもある。この連載中、少なくとも二度クルーズに出掛けた。一度目は、シンガポールからイスタンブールまでの船旅、二度目は地中海周遊である。
めでたいことだけではない。これも少なくとも二度、したたかに転倒した。一度目はハワイで、二度目は自宅玄関で。両方ともしばし意識を失った。二度目では休載にこそしなかったが、やむなく生まれてはじめて口述筆記をした。それ以外の原稿はみな、芯の柔らかな鉛筆で書かれたのである。
そうこうするうち旧知の友はみな先に逝く。年下の友も世を辞する。
「思ひもよらず我ひとり、選に洩れて爾来十年」の感慨をことさら強く抱いたのは、著者の師であった志賀直哉の没年、八十八歳八ヶ月を超えたときであろう。
本書の末尾近くに置かれた興味深い読み物「水交座談会」は、著者が陪席した分のノートのデータはそのまま、工夫して再構成した架空座談会である。それがどれほど精神的体力を消耗させる仕事であるかは、書き手なら誰でもわかる。さらに単行本化にあたって、八節あったこの項目を五節分に構成し直した。そのため百六十一節が、単行本と文庫版では百五十八節になっている。この苦労も身にこたえたことだろう。
天人だって五衰する。まして地上の人ならば。
「大袈裟な噎(む)せ方が始まる。よだれが垂れる。手先が震へる。眼はかすんで、目尻にいつも涙と目脂がたまつてゐる」と阿川先生は、自らの五衰のようすを書かれた。これに転倒と失禁が加われば、「凡ゆる事がめんどくさ」く、「門ニ終日車馬無ク終年静カナリ」の境地に憧れられるのも無理はない。ついに二〇一〇年夏、八十九歳九ヶ月で筆を擱かれた。
九十年の時間も、主観的には「邯鄲の枕の夢」にすぎないとあるが、この四冊の本には、昭和戦前のピークであった一九三七、八年の「桜吹雪の春の宵」から、茶色い戦争、戦後の復興と画一的「民主化」運動の猖獗、さらには「第二の敗戦」を疑われる現代まで、個人の歴史と世の歴史の重なりがぶ厚く語られている。
阿川先生といえば疳癪も広く知られるところだが、この四冊を通し、それが感じられるところはない。自制されたのか、加齢に洗われたものか。
最後に読者として気づいたのだが、鈴木貫太郎の年下の賢夫人への賛仰に近い記述は、実は阿川夫人へのひそかな感謝の反映ではなかったかとも思われる。だとすれば、やはりこれは文学である。ここにこそ文学がある。
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