たとえば「花」の項目のカードを引き出せば、小泉信三が昭和二十年一月二十六日の夕刻に六本木の後藤洋花店まで妻の誕生日を祝う花を買いに行ったというカードがあります。石鹸のカードを二、三枚引き抜けば、横須賀高女の動員生徒たちの回想録に横須賀海軍工廠造機工場で、機械油で汚れた手をノコギリ屑で拭くとでてきますし、作家の伊藤整の昭和十八年六月二十七日の日記に四月、五月、六月に石鹸の配給がなかったこと、灰汁(あく)を使ったとの記述があるとでてきます。朝日新聞記者の細川隆元の回想録には、交換船で昭和十七年に米国から帰国する、いっしょに帰る娘が石鹸を持ち帰るというのを、石鹸なんてものは日本にだってヤマとあると説教して、持って帰らなかったがために、あとで娘にさんざん恨まれたとでてきます。
カードの入った四十五個の箱以外に、その原典となった本やコピーのファイルなどが書棚に並び、テーブルと机に積み上げておりますから、わずかな通路と机の上のこれまたわずかな執筆スペース以外、まったく余白はありません。
──大きな地震がきたら、さぞかしたいへんなことになるでしょうね(笑)。さて、最新刊の『山本五十六の乾坤一擲(けんこんいってき)』についてお聞きしましょう。昭和十六年という、開戦の年にのみ絞って全体を通すのははじめての試みですか?
鳥居 ええ、そうです。正確に言えばとりあげたのは昭和十六年六月から十二月までの半年間ということになります。『昭和二十年』第十二巻で日米戦争を避けるために山本五十六がやったことをすでに書いていますが、脱稿後、さらに多くの事実、それまで気づかなかったことがわかってきたのです。
──長きにわたって開戦から敗戦までの史料を渉猟(しょうりょう)してこられましたが、執筆に当たってまた改めて、基本的史料に一から当たり直したそうですね。
鳥居 開戦にいたるまでの山本五十六の足跡を徹底的にたどり直すために、本書のもう一人の主人公、高松宮の日記、内大臣の木戸幸一、侍従の入江相政(すけまさ)と小倉庫次、侍従武官の城英一郎の日記、連合艦隊の参謀長宇垣纏(うがきまとめ)の日記を読み返し、多くの回想録、研究書に目を通し、昭和史のカードを洗い直しました。本書では、対米戦争を絶対にするまいとしてぎりぎり最後まで努力をしたたったひとりの人物が、連合艦隊司令長官の山本五十六だったという悲劇的な事実を、最終的に浮かび上がらせることができたと私は思っています。
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