若き日は「星の王子さま」。寄席だけでなく、テレビ、映画とさまざまなメディアで八面六臂の活躍を見せ、マルチタレントのはしりでもあった五代目三遊亭円楽。スケールの大きな豪快な芸風は、落語ファンだけではなく、お茶の間にも広く浸透した。
昭和七年(一九三二年)、東京・浅草の浄土宗・日照山不退寺易行院に生まれる。この寺には居候が多く、サトウハチロー、菊田一夫、川口松太郎らが出入りしていたという。
昭和二十九年、三遊亭円生の一番弟子として入門し、「全生」。昭和三十七年には二十九歳で真打に昇進し、円楽を襲名した。昭和四十一年からは、現在も続く人気番組「笑点」のレギュラーとなる。昭和五十八年からは四代目司会者を務めた。
古今亭志ん朝、立川談志、春風亭柳朝とともに「落語四天王」と呼ばれ、一時はレギュラー番組を十本かかえるなど、順風満帆の落語家人生に、昭和五十三年、大きな波瀾が訪れる。円生一門が落語協会を脱退し、「落語三遊協会」を設立したのだ。しかし翌年、円生は他界。総領弟子の円楽は寄席から締め出された一門のために、昭和六十年、東京・江東区に寄席「若竹」を建設する。
〈借金だけはしたくなかったんですけど、総工費六億円。/ちょうど金利がべらぼうに上がってる頃で、月に四百三十万も返済してたんですよ。/この頃は、借金返済のためにあちこち講演会にかけずり回ってました。噺家として一番いい時期に、肝心な落語ができなくて、これはまずかったですねえ〉(「週刊文春」平成十九年=二〇〇七年五月三・十日合併号)
「若竹」は平成元年に閉鎖に追い込まれるが、三億円もの負債は、わずか六、七年で完済したという。
平成十七年、脳梗塞で倒れ、半生をともに歩んだ「笑点」を勇退。平成十九年には得意の人情噺「芝浜」の出来栄えに納得できず、落語家引退を表明した。
〈落語を辞めたって、人生終わったわけじゃないんですから。親父のいまわの際の言葉そのままですね。/落語も寿命、天命ですよ〉(同前)
平成二十一年十月二十九日、七十六歳で逝去。翌年に六代目襲名を控えていた愛弟子・楽太郎との「二代円楽そろい踏み」はかなわなかった。
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