いちいち挙げていったらきりがないけれど、せっかくなので別の著書からも引いてみると、僕が個人的に好きな『白秋』(講談社文庫)の中に、こんな台詞がある。主人公の文枝が生花の師匠の前で、ある男性に対する自分の恋心を打ち明けてしまい、たじろぐ彼女に師匠が微笑みながら言う。
“「いいの、おばあさんの前では何を話しても。皆忘れてしまいますから」”
こんな台詞を嫌味なく書けるのもまた、人間というものに対する愛情ゆえに違いない。
いつだったか、非常に印象深い出来事があったのを憶えている。
編集者と連れ立って浅草の路地裏にある小さなバーに寄ったときのことだ。とても綺麗なママさんにウィスキーのボトルを開けてもらい、帰り際、飲みきれなかった分をキープしてもらうことになった。キープタグに「道尾」と書いてボトルネックにかけ、ママさんがそのボトルを酒棚に置いたのだけど、その隣のウィスキーに「伊集院静」と書かれているのを見つけた。
「この伊集院さんは、あの伊集院さんですか?」
「ええ、よくいらしてくださるんですよ」
「偶然会わなくてよかったな……」
「あら、どうしてです?」
「だって僕なんか、何を話せばいいんだかわかりませんもの」
「平気ですよ。とってもお優しい方ですし」
そう言って微笑んだママさんの顔は、微笑む前の何倍も綺麗だった。
どこかで誰かを、あんな風に微笑ませることができる伊集院さんの生き方を、本当に素敵だと思った。
とはいえ、誰かと愛情や人情を通わせさえすれば上等な小説が書けるかというと、そんなわけはない。当たり前の話だけれど、そこには小説家としての特異な力が必要となる。
たとえば現実感の出し方。本書の冒頭P.18で、「栃錦」という実在の力士と、架空の人物である留次とのエピソードがサラリと書いてあったのをご記憶だろうか。中学時代に相撲をとって、留次が栃錦を負かしたというくだりだ。そのあとでP.30に、志万が初めて身体を捧げた相手である架空の力士を登場させ、「琴□□」と、こちらの四股名を逆に伏せてある。実在の「栃錦」は「栃錦」で、架空の力士は「琴□□」。こうすることで、架空の力士が持つ現実感が格段に強まっている。こうしたテクニック、なかなか真似できるものではない。
そして、言葉の選び方。僕の仕事場はじつは浅草にあり、三社祭は見慣れているのだけど、その祭りについて作中で志万が言う。
“「三社祭はいつだって同じよ。町中が熱くなって、男も女も、大人も子供もみいんな、どこもかしこもふくらむのよ」”
こんな表現が、どうしたら書けるのだろう。町中が「賑わう」のではなく「盛り上がる」のでもなく、「ふくらむ」などと。これまで幾度も目にしてきた三社祭の光景が、自分の記憶よりもずっと鮮明にスケッチされ、そのスケッチをするりと目の前に差し出された気分になる。こうしたさり気ない言葉たちが、作中の人物たちに血肉を、物語に奥行きを与える。長い文章で克明に描写しようとするのではなく、たとえば印象派の画家が単純な線だけで写真以上にリアルな絵を描くように、温度と湿度とざわめきを持った町を、心と肉体を持った人々を、読者の目の前に描き上げる。読者はその世界の中で、ミョウガのさわやかな香りをかぎ、店の木戸から吹き込む風に冬のにおいを感じ、カウンターで鱧や黒豆や八幡巻を味わい、熱燗や冷酒を飲み、人々の人情に触れる。
いい小説だな、と思う。
文章のテクニックなんて、本当はどうだっていい。どんなふうにしてこの作品が生まれたのかも、実のところ自分には関係ない。たとえば風が気持ちいい夕刻、愛着のある町の片隅に立って、いい町だな、と呟くのと同じように、いい小説だな、と思う。