書評

著者を命名した初めての私小説――「プロローグ」はまだはじまったばかりだ

文: 佐々木 敦 (批評家)

『プロローグ』(円城塔 著)

『プロローグ』(円城塔 著)

 丁度傍らを通りかかったわたしへ向けてこんにちはと声をかけると、こんにちはと返事が戻った。これは音声と思われるかも知れないのだが、この通り、目に見えている文章である。


「この通り」というのは、その通りである。わたしの三文字がこの並びでひとつの意味を成すものとして記されるのは、ここが最初である。「わたしはちょっと困った顔で「僕は今、吉祥寺のアーケードにあるエクセルシオールカフェの二階でこれを書いており、通りかかったのはそっちの方だ」ということを言う」。ひとつ前の文章は鉤カッコで括られていることでもわかるように引用である。二つ前の文章には気になるところが数カ所ある。鉤カッコ内鉤カッコの「僕」というのが「わたし」と同一の存在であることはわかるが、何か変である。というかあからさまに変だ。あからさまなのを説明するのも無粋だけれど説明すると、いきなりはじまってからというもの、ここまでの文章の連なりを音声ではなく「目に見えている文章」のかたちで語っているのは「自分=これ=文章」であるらしい、ということはおおよそ確かなことだと思われたのだが、だとすればこの「わたし」とは何だというのか。「丁度傍らを通りかかったわたしへ向けてこんにちはと声をかける」って誰が誰に「こんにちは」を言っているのか。そして誰が誰に「こんにちは」と返事しているのか。二つ前の問いへの答えは「「自分=これ=文章」が「わたし」に」であり、一つ前の問いへの答えはその逆である。しかしもちろん、これでは何も答えたことにはなっていない。そして問題をさらにややこしくしているのは、これの十個前の文章(引用)中の「これを書いており」の「これ」であることは言うまでもない。「これ」とはどれか。これはこれである。「これ」はこれである。これは「これ」である。「これ」は「これ」である。今、これを書いているわたしは「わたし」と今しがた呼ばれたばかりだが、これは「呼ばれた」を「名乗った」と書き換えても同じことである。だとすると、どうなるのか。「自分=これ=文章」を今、書きつつあるのが「わたし」なのであり、つまり「わたし」は遅ればせながら登場した、いうところの「一人称」のアレということになるのだろうか。アレには「語り手」を入れても「作者」を入れても両方入れても良いような気がするが、そのどれを入れたとしてもモヤモヤした感じは残り、モヤモヤするように書かれている。しかも、よりにもよって「わたし」は「自分=これ=文章」との対話の中で、こんなことを言い出す。「日本語は、なんとなく文字列を処理しながらだらだらと愚痴を連ねていくという仕事には向いていると思う。私小説というやつだね」。だらだらと、という意味ではこの解説もそうかも知れないが、わたしは今のところ愚痴は言っていない。むしろだらだらと愚痴を言っているのは「自分=これ=文章」のようにも思える。

プロローグ円城 塔

定価:本体890円+税発売日:2018年02月09日


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