『魔女の原罪』(五十嵐 律人)

 自分の少年少女期を思い返した時、通っていた学校の校則のことは記憶に残っているだろうか(今まさに少年少女期の読者にとっては現在進行形の問題であるが)。学校ごとに厳しいか(ゆる)いかはかなり幅が大きいので、校則に対する印象には個人差があると思われる。異常に厳格な「ブラック校則」に縛りつけられた経験のあるひとなら、当然いいイメージは持たない筈だ。

 ならば、校則というものがない学校があったとしたらどうか? 髪を染めようが、ピアスをつけようが、好きな服装で登校しようがOK――そんな学校が存在したならば、果たしてそこは楽園だろうか?

 恐らく、現実にはそんな学校は存在しないだろう。だが、五十嵐律人の長篇ミステリ『魔女の原罪』(二○二三年四月、文藝春秋から書き下ろしで刊行)の中には存在する。十七歳の主人公、和泉(いずみ)(こう()が通っている鏡沢高校だ。

 本書は二部構成になっており、第一部「異端の街」は、宏哉の一人称で進行する。冒頭、彼は同じクラスの(みな((あい()とともに人工透析を受けている最中だ。透析治療は、機械に血液を循環させて、体内に溜まった老廃物や不要な水分を除去する治療である。この治療が行われている透析クリニックは宏哉の父・(じゆん)が経営しており、臨床工学技師の母・(しず()が透析を担当している。つまり、宏哉は両親によって治療を施されているのだ。適応する腎移植のドナーが見つかるまでは。

 隣同士のベッドに横たわって治療を受けているあいだ、宏哉と杏梨は他愛ない会話を()わしている。杏梨は宏哉に「魔女と魔法使いの違いを知ってる?」と問いかける。その答えは、「魔法使いの中にも善人はいる。でも魔女は、存在自体が悪なの」「世界を(けが)す存在なんだよ」というものだ。

 このどことなく不穏なやりとりで幕を開ける本書は、二人が通う鏡沢高校の紹介へと移行してゆく。先述の通り、この高校に校則はなく、何よりも生徒の自主性が重んじられ、彼らは好きな服装で登校している。そこだけ取り出すと楽園さながらだが、やがて、別の原理がこの高校の生徒たちを縛りつけていることが判明する。

 鏡沢高校では、校内で自由に振る舞える代わり、決して法律を破ってはいけないのだ。こう書くと当たり前だろうと言われそうだが、そのバランスがあからさまに不自然である。入学式では生徒手帳と一緒に分厚い六法が生徒に渡され、校内の至るところに設置された防犯カメラが生徒たちの行動を監視している。違法行為を犯した生徒の名前は全校集会で公表され、村八分のような扱いを受けるのだ(無視は「不作為」にあたるため、違法行為ではないと見なされる)。

 法律に反しさえしなければ何をしても許されるが、逆に適法の範囲内でのいじめが教師たちからも黙認されている――この現状をおかしいと考えた宏哉は、部室で上級生の財布を盗んだ一年生の(しば((たつ()が、まるで教室に存在しない人間のようにクラスメイトたちから扱われていることを知り、この盗難事件の真相に迫る。自身の違和感を納得させるために、そして現状を打破するために。

 だが本書において、異様なのは高校だけではない。登場人物たちが住む鏡沢町というコミュニティそのものがどこかおかしいのだ。町では、昔からいる旧世代の住人と、移住してきた新世代の住人とが何故か互いを敵視しており、前者は後者から「カツテ」と呼ばれている。何らかの理由に基づくわだかまりが存在しているようなのだが、近年の国産ホラーによく登場する「因習村」ともまた雰囲気は違う。この得体の知れなさが、本書前半に漂う不穏さを色濃いものとしている。

 盗難事件に決着がついても、事態が改善されるわけではない。それどころか、この学校の異常なルールが、今度は宏哉に対して牙を()くことになるのだ。基本設定や展開は大きく異なるものの、主人公がクラスメイトに無視される展開は、綾辻行人の『Another』 (二○○九年)を想起させる。そして、第一部のラストで事件が起こる。ちょうど、本書の半分あたりである。

 その事件の謎が解明されるのが、第二部「魔女裁判」だ。ここで視点人物は宏哉の他にもう一人増える。第一部から登場していた宏哉の担任教師・(((とも(のり)だ。弁護士の資格を持つ彼は、事件の被疑者として逮捕された人物の弁護を引き受ける。本書の基礎設定として、解説で紹介できるのはここまでだろう。

 タイトルから窺えるように、本書は中世・近世のヨーロッパで行われていた「魔女狩り」のイメージを物語に重ね合わせている。魔女の嫌疑をかけられた人間に裁判で死刑判決を下したり、そのために拷問を加えたり、あるいは法的手続きを経ずに私刑を行うなどの蛮行を指し、犠牲者は(諸説あるが)数万人に及んだという。魔女とされた者の多くは女性だったが、男性が犠牲となる場合もあった。本書において主人公が高校生の少年に設定されているのは、そうした性差を問わない現象であったことを強調したかったからかも知れない。日本においては、宗教や魔術とは無関係の文脈で、過度のバッシングなどを批判する際に「魔女狩り」と表現する場合もある。

 著者は、ウェブサイト「小説丸」二○二三年六月二十二日掲載のインタビュー「裁判でなければ解決できないもの」(文・取材/吉田大助)で次のように語っている。

「社会が変われば法律も変わり、その影響で新しいリーガルミステリーが生まれてくる。今まではその考え方で、スクールロイヤー(学校内弁護士)やSNSの誹謗中傷といった現代的な問題を物語で扱うパターンが多かったんですが、今回は違いました。日本で言えば戦前の治安維持法や戦後の優生保護法など、過去を振り返ると悪しき法律や悪しき裁判がたくさんあったことに気付きます。そういったものが現代にもあったとしたらどうなるか? それが書けたら、今までにないリーガルミステリーになるんじゃないかと思ったんです」

 そのために著者がモチーフとして選んだのが「魔女狩り」だったわけだが、現代の日本において「魔女狩り」的な現象を描くにはどうすればいいのかという思索から生まれたのが、鏡沢高校という特異なルールを持つ学校、そして鏡沢町という閉鎖的なスモールタウンである。本書のような設定は、大都市であれば成立不可能だっただろう。

 そして本書最大の秘密――鏡沢町の奇妙な風習が成立した理由は、タイトルにもある「原罪」という言葉に暗示されている。原罪はキリスト教の用語ではあるが、ここでは宗教的意味合いはさておいて、自分の力ではどうすることも出来ない罪の烙印と考えるべきだろう。冒頭で引用した、「魔法使いの中にも善人はいる。でも魔女は、存在自体が悪なの」「世界を穢す存在なんだよ」という杏梨の発言を思い出してほしい。現代日本において、「存在自体が悪」「世界を穢す存在」と見なされる魔女的立場の人間とは何か。それは、連帯責任的な思考をベースとする日本社会の、ある意味で最大の禁忌とも言える存在だ。

 この禁忌をめぐって、第二部では、物語のあちこちにばらまかれていた違和感の数々――鏡沢高校独自のルール、古くからの住民と移住者との確執、いじめに対して異を唱えただけの宏哉が学校で無視されるようになった理由、弁護士だった佐瀬が教師になった事情に至るまで、すべてに納得のいく説明がつく。宏哉の家庭で出される料理すらもが伏線なのだ。衝撃に次ぐ衝撃で読者を翻弄する、本書の本格ミステリとしての構成力には感嘆するしかない。

 著者は二○二○年、第六十二回メフィスト賞受賞作『法廷遊戯』でデビューした。ロースクールの学生たちによる模擬裁判を描いた第一部と、実際の裁判を描いた第二部から成る法廷ミステリである。二部構成である点といい、物語の半分くらいで事件が起きる点といい、本書の構成はこのデビュー作とよく似ている。

 だが、デビュー時には司法修習生であり、現在は現役弁護士作家である著者が、本格的な裁判の場面を描いたのは『法廷遊戯』以来、第六作の本書が久しぶりであることも指摘しておこう。この点について著者は、先述のインタビューで次のように語っている。

「実は、二作目以降は裁判から意識的に距離を取っていたんです。裁判を扱うと法律上のいろいろなしがらみが出てきてしまうので、もうちょっと自由なものを書きたいなと思ったからです。例えば、作中にも書きましたが、弁護士は名探偵になり得ない。クライアントファーストなので、依頼人が自分は無罪だと言ったら無罪を主張しなければいけないし、そこで事件の真相に気付いて推理を披露したりするのは、弁護人として失格なんですよね。ただ、裁判からあえて離れた作品を書いていったことで、裁判でしか書けないこともあるんだと再認識することができました。その実感をもとに、『法廷遊戯』以来久しぶりに、正面から裁判を扱ってみようと考えたのが『魔女の原罪』でした」

 そんな裁判の進行が繰り広げられるクライマックスでは、第二部の視点人物が宏哉と佐瀬の二人である必然性が明らかとなる。佐瀬は弁護人だから、被告を守るという規範を外れた言動は許されない。だが宏哉は、その裁判を通して、自分自身の問題と向き合わなければならない。事件を生むに至ったあらゆる理不尽と立ち向かう覚悟を決めた宏哉の姿は爽やかである。

 本書は『法廷遊戯』に劣らぬユニークなリーガル・ミステリであり、現代日本の歪みを見据えた社会派ミステリであり、恐るべき高度な伏線回収技術によって成立している本格ミステリでもある。現時点での著者の最高傑作として強くお薦めしたい。