- 2013.05.09
- 書評
世界を虜にするピアニストを育てた奇跡の12年間
文:三枝 成彰 (作曲家・音楽プロデューサー)
『辻井伸行 奇跡の音色 恩師との12年間』 (神原一光 著)
ジャンル :
#ノンフィクション
辻井伸行くんは、2009年のヴァン・クライバーン国際ピアノ・コンクールで日本人初の優勝を果たしました。20歳、全盲の青年の快挙が大きな話題になりましたね。以来、ピアニストとして彼の活躍は続いています。
僕がはじめて辻井君の演奏を聴いたのは彼がまだ9歳の時。あるコンサート会場でした。と言っても辻井君は出演者だったわけではなく、コンサート終演後に僕が「舞台で弾いてみてごらん」って勧めて、故・羽田健太郎さんや、他の人と一緒に聴かせてもらったんです。いや、とても上手な子だなと思ったし、なにより素直で明るくて、やる気にあふれていました。
これは応援しなきゃ、ということでテレビ関係者に「絶対この子を今後追いかけといたほうがいいよ」って紹介して、そこから報道の特集番組に彼が出演したり、密着ドキュメント番組が作られたりしたので、テレビで彼の存在を知った人も多かったんじゃないかな。
12歳、13歳でのソロリサイタルもうちの事務所が主催して開きましたし、14歳の時にはショパンコンクールに挑戦したいと言うので、それならオーケストラと弾く体験が必要だろう、と、東京交響楽団との共演コンサートも企画しました。この時のモーツァルトのピアノ協奏曲は本当に素晴らしかったですよ。今でも思い出します。
ですから、今24歳の辻井伸行が演奏家としてどんな風に歩んできたのか、僕は良く知っているわけですが、この本を読んで「そうだったのか」と驚くことがいくつもありました。
プロのピアニストを目指す人が1人の先生に長期間習うことは珍しいのですが、辻井君は、6歳から19歳までの12年間、東京音楽大学の川上昌裕さんという方に教わっていたんです。もちろん僕もそのことは知っていました。しかし、その12年間が実際どのようなものだったか、川上先生が辻井君に何を教えたのか……国際的にも絶賛される辻井伸行の「音色」を作り上げた恩師として川上先生をクローズアップしたのが、2010年に放映されたNHK番組「こころの遺伝子」で、この本は番組の取材をもとに書き下ろされたんです。
ウィーン留学から帰ったばかり、29歳の川上先生にとって、6歳の辻井君が初めての生徒。その才能の大きさと個性に魅了されて指導を決意したわけだけど、技術、感覚の両面から徹底して辻井君の立場で考え、なにもかも手探りで独特のレッスンを編み出す過程は読んでいて圧巻。どれだけ悩んで試行錯誤したことか、胸を打たれました。
そのレッスンとは、「伸行くんが楽しいと感じる曲から順番に教える」「得意なものだけ。苦手なものは後回し」という自由な、辻井君のテンションを高く保つことを重視した型破りなもの。「猛練習が必要だということはあとで気づけばよい」というわけで、指を鍛えるための地道な練習などはさせない。
さらに、譜面を見ることができない辻井君にどうやって具体的な指導をしていくのかというと、これがまた凄い。
オリジナルの「譜読みテープ」なるものを作ることにしたんです。右手と左手別々に弾きながら、同時に音色やリズム、強弱記号などの情報は声で吹き込むというもの。さらに、作曲家がどんな思いを込めたのか、目標とする表現はどういうものかといった解説まで声で入れる。今とちがってカセットテープですから、簡単に編集なんて出来ないんですよ。5分の曲のテープ作りに1時間かかることもあったといいますから、それはもう膨大な時間と労力を必要とします。こんなテープを最終的に200本以上作ったそうです。
すべては、辻井伸行という教え子の才能を自由に大きく伸ばすため。オリジナリティあるプロのピアニストを育てるために川上先生は、自身が留学先で必死に掴んだことを惜しげもなく注ぎ込むんです。
実は伸行くん自身も、川上先生が幼い自分に教えるために裏でどれだけの努力をしてくれていたのか、番組で初めて知ったそうです。大人になった辻井君が川上先生への感謝と決意を込めた手紙が本の中にありますが、とても感動的ですね。辻井君は、川上先生と出会えて本当に良かった。それにしても、なぜ川上先生はここまで全身全霊で辻井君に向うことが出来たんだろうか……真剣に「人を育てる」ということについて考える人には必読の1冊でしょうね。
ただ、ピアニストって40歳までは小僧扱い、真価が問われるのはその後なんです。辻井伸行はまだ24歳。本にも書かれているけど、彼は本当に素直で明るい前向きな性格で、だからこそここまで快進撃してきたわけだけど、究極的には、芸術家はもっと変態的でないといけません(笑)。世界で活躍し続けるピアニストになる為に、もっともっと意地悪く、嫉妬深く、ひねくれて欲しいですね。(談)
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