『此の世の果ての殺人』で江戸川乱歩賞を最年少で受賞しデビュー、第2作『ちぎれた鎖と光の切れ端』で吉川英治文学新人賞の候補になったミステリー界の新鋭・荒木あかねさん。その待望の単著第3作『おむこさんは殺人鬼』が7月10日に発売となります。

 本作は“人生の謎”に立ち向かうミステリー作品集で、全5編を収録。収録作より「答え合わせ」を全文公開いたします!


 答え合わせ

 ふと顔を下に向けると鮮やかな赤が目に入った。

 膝の上に置いた手が、コートの袖が、血でべったりと汚れている。俺が怪我をしているわけじゃない。全部、彼の止血をしているときに付いたものだった。

 車体の揺れが伝わらないよう、カーブに差し掛かる度に一人の救急隊員がストレッチャーを押さえつけていた。マットレスに身を横たえた彼は、血の気の失せた真っ白な顔をしている。俺は唇を強く嚙み締めながら、救急病院に着くまであとどれくらいかかるだろうかとばかり考えていた。

 日本海側を中心に強い寒波が次々と襲来して、新潟は例年以上の大雪に見舞われていた。消雪パイプによる処理では追い付かず、上越市の幹線道路には灰色の雪が多く残っている。救急車は凍結した道路を慎重に走っていた。

 後部座席の窓には目張りが施されているため、外の景色を見ることはできないが、また雪が降り始めたのかもしれないという予感があった。

 彼を発見したのは、つい十五分ほど前、午後二時過ぎのことだった。彼は広い庭で、首から血をだらだらと流して倒れていた。出血性ショックを起こしたのか脈拍も呼吸も弱くなっていたが、しかしまだ意識があった。薄く瞼を開くと、呂律の回らない口で『冬馬(とうま)』と俺の名前を呼んだのだ。

 彼の声は不明瞭だったが、俺にはこう聞こえた。

『とうま……からだを……たいせつ……に』

『だいす……きだよ』

 ――冬馬。身体を大切に。大好きだよ。

 もっと他に言うべきことがあっただろ、と俺は呆れた。と同時に、実に彼らしい言葉だなとも思う。

 彼の右側頸部――右耳の五センチほど下には、ボールペンが深く突き立てられていた。出血の恐れがあるためか、未だに抜かれていない。そんなものを自分で刺したとは到底思えなかった。明確な殺意を抱いた誰かにやられたのだ。

 血の繫がらない息子に「大好きだよ」などという生温かい言葉をかけるくらいなら、せめて刺した犯人のヒントくらい残してくれればよかったものを。

「最後まで父親のふりをしたかったのか?」

 付き添い用のベンチシートから身を乗り出し、意識のない彼に向かって囁くような声で問いかける。無論返事はない。

 律儀な人だった。嫌な顔一つせず、俺の父親の役割を精一杯演じてくれていた。俺たちが生活を共にしたのは、たった七年ぽっちだったのに。

 

   *

 

 俺が生まれ育ったのは、佐渡島の北西海岸に位置する、相川という小さな町だった。

 物心ついた頃には父親の姿はなく、母一人子一人の家庭だった。地元の物産会社で事務員をしていた母は底抜けに明るく陽気な人で、俺は片親であることに対して不満や寂しさを覚えたことなど一度もなかった。

 ずっとこのまま、母と二人きりで暮らしていくのだろうと信じて疑っていなかった。だから中学三年の春、母から「結婚を考えている人がいる」と告げられたときは少なからず驚いた。

「冬馬も、一度赤羽(あかばね)さんと会ってみてほしい」

 赤羽順平(じゅんぺい)というその男は、新潟本土の人だと母は言った。母が本土に頻繁に出かけている様子などなかったから、二人は一体どうやって付き合っていたんだろうと当時の俺は不思議に思った。

 その年のゴールデンウィークに三人で食事をすることになり、俺は母とともに小木港から上越市の直江津港へと渡った。待ち合わせ場所のレストランに向かうと、赤羽順平は既に店の中で俺たちを待っていた。にこやかな笑みを貼り付けた彼が振り返って手を振ってきたときのことを、今でも鮮明に覚えている。

 彼は上越市にある県立高校で数学の教諭として働いていた。母とは友人の紹介で知り合ったらしい。彼は俺のことを「冬馬くん」と呼び、気安い口調で話しかけてきた。

「冬馬くん、今受験生なんだろう。勉強は大変?」

「……うん」

「バレー部に入ってるんだってね。香織(かおり)さんから動画、見せてもらったよ。すごくかっこよかった」

「うん、ありがとう」

「高校に入っても続けるのかい?」

「まあ、たぶん」

 母から事前に「赤羽さんには敬語を使わなくていいからね」と言われていた。多感な中学三年生の男子が初対面の大人に向かってタメ口を利くのは難しい。それでも母のためならば、と必死だった。だって、俺が彼に嫌われてしまったらきっと母に迷惑をかける。

 皆がメイン料理をあらかた食べ終えたところで、彼の携帯電話に着信があった。職場から何か連絡が入ったらしい。彼が携帯を片手に「ちょっと失礼」と席を立った瞬間、俺は深く呼吸した。そのときになってやっと、自分が彼を前にひどく緊張していたことに気づいたのだ。一方母は暢気なもので、彼が席を外している間、デザートのアイスクリームを勝手に三人分注文していた。

 やがてバニラアイスがテーブルに運ばれてきた。折よくテーブルに戻ってきた彼に向かって、母が言った。

「アイス来たよ」

 すると彼は少し面食らったような顔をして、「うん、俺も大好きだよ」と言う。母はぽかんと口を開けた。

「どうしたの、いきなり。わたしは『アイス来たよ』って言ったんだけど……」

 母の「アイス来たよ」は、彼が不在の間にアイスクリームが配膳されたことを知らせるための言葉だったのだが、どうやら彼はそれを「大好きだよ」と聞き違えたらしい。何とも間抜けなその聞き間違いに気づいた途端、彼も母も大笑いし始めた。

 人は他人の話を聞くとき、相手が今から何について話そうとしているのか、無意識のうちに過去の経験や記憶などと照らし合わせて予測している。そして、その予測の範囲内で会話が行われるものだと思い込んでいるのだ。人はこの思い込みのために、想定外の言葉が発された場合に聞き間違いを起こす。つまり、初めて聞く言葉や耳馴染みのない言葉、予想外の言葉は聞き間違えやすいと言えるだろう。

 あのとき、母がアイスクリームを注文していたことを知らなかった彼にとって「アイス来たよ」という台詞は全く予想外のものだった。だから正しく認識できなかったのだろう。

 食事を終えた後、俺と母はまた佐渡へと向かうフェリーに乗った。彼はフェリー乗り場まで見送りにきて、長いこと手を振っていた。

 甲板の手すりにもたれかかり風に当たっていると、いつのまにか母が隣に立っていた。母は「赤羽さんと家族になりたい」と言った。

「冬馬のためにも、いいことだと思う。もちろん、冬馬が反対するなら結婚しないよ」

 初対面の大人と二時間食事するだけでも苦痛で堪らないのに、いきなりそいつと家族になれだなんて、冗談じゃない。俺は嫌だ。嫌だ。俺のためと言うのなら、誰とも再婚しないでくれ。そう叫びたくなるのをすんでのところで堪えた。

「俺は大丈夫だよ」

 母の人生だ。好きにすればいい。でも一言、「ごめんね」と謝ってほしかった。

 母と彼が結婚したのはそれから約一年後。佐渡のアパートを引き払って、二人は上越市に中古の家を買った。俺は本土の高校に入学した。

 継父と暮らすようになってから、主に母と彼との間で「アイス来たよ」という符牒が度々使われるようになった。母はときどき俺にも「アイス来たよ」と言った。継父も俺に向かって冗談っぽくそれを言うことがあったが、俺が二人の習慣に倣うことは一度もなかった。

 彼らにとっては馬鹿馬鹿しくも幸せな合言葉だった。しかしそれはすぐに使われなくなった。母が夏に死んだからだ。

 その日、母は日が落ちてから「洗剤を買い忘れてた」と言いだして、近所の薬局へと向かった。継父はまだ仕事中で、学校から帰ってきていなかった。

 暗い交差点だった。母の車は、スピード超過で右折してきたトラックに衝突された。母と彼との結婚生活はたった三ヵ月で終わりを迎えたのだ。

 二人が再婚に踏み切ったのは、俺がもう大きかったからだと思う。あと三年もすれば高校を卒業する。大学生になってから一人暮らしでもさせれば、夫婦二人きりで過ごせるようになる。そう考えていたはずだ。けれど継父には血の繫がらない息子だけが残された。

 母抜きではまともに会話もできないような間柄だった。家族と呼べるような関係を築けてはいなかった。しかし継父は、俺と共に暮らし続けることを決めた。

「当然じゃないか」と彼は言った。「香織さんがいなくなっても、俺が冬馬の保護者であることに変わりはないよ」

 心の中ではこんなことなら養子縁組なんかしなけりゃよかったと後悔していただろうが、おくびにも出さなかった。本当に律儀で、真面目な人だった。

 母の初盆の法要は上越の自宅で行われた。母方の親戚も赤羽の親戚も、ほんの数名しか参列しなかった。結婚するとき彼の方が母の籍に入っていたので、継父はもう赤羽ではなく、俺と同じ清水(しみず)姓を名乗っていた。

 読経が終わると客間で会食が始まった。継父はある程度時間が経つと「冬馬は勉強してきなさい」と俺を追い出した。今思えば、俺が居心地悪そうにしているのに気づいてくれたのかもしれない。仏壇のある和室に逃げ込み、俺は一人、市民図書館で借りた本を読んでいた。

 客間の方から、知らない大人たちの話し声が微かに聞こえてくる。小一時間ほど経って、継父が部屋に顔を出した。彼は仏壇の前に設えられた白提灯と盆棚に目を向けたまま、俺に話しかけてきた。

「夏休みの課題は終わったのか? 数学なら教えるよ」

「もう全部やった」

「そうか」

 しばらく沈黙が続いた後、また彼は口を開く。

「何の本を読んでるんだ?」

「ジョン・アーヴィングの『ガープの世界』。もう読み終わる」

「どんな話?」

 看護師の母と、重傷を負って寝たきりとなった兵士との間にできた子ども、T・S・ガープの一生を描いた小説である。「あらすじを説明するのが難しい」と答えると、継父はさらに質問を重ねた。

「じゃあ、印象に残ってる場面は?」

 印象に残っているのは、物語の後半、ガープが飛行機の中で息子のダンカンと会話するシーンだ。ダンカンは父ガープとともに、幼い頃の思い出話――ウォルトと引き波の話をする。ウォルトとはガープの次男、つまりダンカンの弟である。

 ガープ家は毎年、夏になると海辺の町に出かけていた。ある夏の日、幼いウォルトが浜辺でよちよち歩きをしていると、兄のダンカンがこう注意した。

 ――引き波に気をつけろ。(Watch out for the undertow.)

「引き波(undertow)」という言葉を知らなかったウォルトは、それを「水中のヒキガエル(under toad)に気をつけろ」と聞き間違えた。ガープと妻のヘレンはその可愛らしい聞き間違いを大層気に入って、家族の間だけで通じる合言葉として「ヒキガエル」を使うようになっていく。

 そんなことを適当に説明していたら、継父の暗い瞳にみるみるうちに涙が溜まっていった。彼は静かに言った。

「引き波とヒキガエルか。可愛い聞き間違いだな」

「うん」

「まるで、うちの家族みたいだ」

 やがて彼の目の縁から涙が一粒零れ落ちた。

 俺は腹の底から激しい怒りがこみ上げてくるのを感じていた。俺の方が母と長く過ごしていたのに、どうしてほんの少しの間だけ恋人だった男が俺を差し置いて泣いているのだろう。図々しいと思った。

 継父は泣きながら俺の背中を擦っていた。何もかも逆だろ、と叫びだしたくなったが、口にも態度にも出さなかった。

 

   *

 

 消音装置が作動しているためか、救急車のサイレン音が随分と緩和されている。車内は案外静かだった。意識を目の前に戻すと、人形のように真っ白な顔をした継父が先ほどと寸分変わらぬ姿勢で横たわっている。瞼は固く閉じられたままだった。

 救急車が発進してから恐らく三分も経っていない。一人の救急隊員が、車内に搭載された電話に向かって何やら捲し立てていた。消防本部に詰めている当番医に指示を仰いでいるようだが、それほど継父が重体だということだろう。

 そうか、彼はもうすぐ死ぬのか。

 大晦日に死んでくれるのは助かるな、などとぼんやり考えた。通夜も葬式も、長期休みの間に終えられる。

 新潟市内の市立中学で国語教師として働き始めて、四年目になる。今年度、俺は初めて三年生のクラスを受け持っていた。今は受験シーズン真っ盛り。年が明ければすぐに私立高校の受験日がくる。忌引き休暇で穴を開けるわけにはいかなかった。

 仮にも保護者だった男の今わの際に、真っ先に仕事のことを考える俺は薄情者なのだろう。喪失感はほとんどない。それよりも、「なぜ継父が」という疑問で頭の中が埋め尽くされていた。

 なぜ継父は襲われたのだろう。人当たりがよく誠実な人だ。少なくとも、首にボールペンを刺されるほどの恨みを買うような人間ではない。職場の人間関係でトラブルが起こったという話は一度も聞いたことがないし、先日の電話でも何か悩んでいるような素振りはなかった。

 継父は今も上越の家に一人で住んでいる。元より地域との関わりが薄いので、ご近所トラブルが暴力沙汰に発展するということもないはずだ。隣に住んでいる道間(どうま)一家――道間孝文(たかふみ)美佳(みか)夫妻と二人の子どもの四人家族とはそこそこ交流があったような気がするが、彼らとの間で揉め事があったという話も聞いたことがなかった。

 職場の人間でも近隣住民でもないとなれば、やはり犯人は身内に潜んでいるのだろうか。母の死後俺を引き取ったせいで、継父は赤羽の親戚との折り合いを悪くしていたようだった。

 このまま継父が死んでしまったら、きっと警察の捜査は行き詰まる。本来ならば最も深い繫がりを持っているはずの“息子”が、彼のことを何も知らないのだから。継父の交友関係や犯人の心当たりについて刑事に尋ねられたとしても、俺は恐らく碌に答えられないだろう。

 気づけば俺は腕を伸ばし、継父の手を握っていた。彼が手袋を着けているせいで体温を感じることさえできない。

 継父の最後の言葉――彼が息も絶え絶えに絞り出した言葉が脳内で繰り返し再生される。

 冬馬。身体を大切に。大好きだよ。

 大好きだよという台詞は、あの日のレストランを思い起こさせた。明るく賑やかな店内。テーブルに美しく並べられた白い皿。グラスを持つ手が震えるほどの緊張感と、楽しそうに笑う母の横顔。そして、「アイス来たよ」を「大好きだよ」と聞き間違えた継父の、きょとんとした顔が瞼の裏に浮かぶ。

「間抜けな聞き間違いだったな……」

 そう呟いたとき、一つの考えが突如として頭に浮かんだ。俺が彼の最後の言葉を聞き違えたという可能性はないだろうか。

 継父はこの上なく善良な人間だと思う。俺の前では常によき父親の仮面を被り、そのように振る舞ってくれていた。しかし、死を迎える直前まで完全無欠に生きることができる人間など、果たしてこの世にどれだけ存在するだろう。

「身体を大切に」も「大好きだよ」も、美しい言葉だ。だが何者かによって襲撃され瀕死の状態にある人間が、そんなどうでもいい台詞を一心に伝えようとするだろうか。俺なら、自分の首にボールペンを突き立てた犯人の名前を一番に伝えたいと思うはずだ。

 継父は本当は、彼を襲った犯人についての重要な手がかりを口にしていたのではないだろうか。つまり、あの言葉はダイイングメッセージだったのではないか。それを俺が聞き間違えていたのだとしたら、今すぐにその間違いを正す必要がある。

 救急車が交差点を曲がり、車体が大きく揺れた。継父の手を強く握り直しながら、俺はあのとき聞き取ったメッセージを頭の中の黒板に書き込んだ。

 とうまからだをたいせつに

 だいすきだよ

「引き波」を「ヒキガエル」と聞き間違えるように、「アイス来たよ」を「大好きだよ」と聞き間違えるように、人が聞き間違える言葉とその元の言葉は大抵よく似ている。俺が間違って聞き取った台詞と継父が実際に発していたダイイングメッセージも、きっと音韻やアクセントの位置などが似通っていたはずだ。

 目を瞑って継父を発見したときの様子を思い浮かべてみる。あれがどんなふうに聞こえたのか、正確に思い出さなければならない。

「年末くらい顔を見せてくれ」と彼から連絡をもらったのは、ちょうど一週間前の日曜日。そして今日――十二月三十一日の昼過ぎに車を出して、新潟市の自宅から一時間半ほどかけて継父を訪ねた。就職を機に家を出てからというものできるかぎり継父の元には寄りつかないようにしていたので、実に二年ぶりの帰省だった。

 上越の家は冬場の雪かきをスムーズにするため、塀や門扉、フェンスなどの囲いを設置しないオープン外構という様式を取っていた。向かって左側にカーポートと玄関があり、その隣には開放的な庭が広がっている。

 俺は家の前に車を停めながら、漠然とした不安に襲われた。敷地内にはたくさんの雪が残っていた。特にカーポートの入口には、五十センチほどの高さの雪が積もっている。

 昨夜の電話では「冬馬の車が停められるように、家の前は綺麗にしておくから」と言っていたのに、どうして雪が積もったままなのだろう。俺が約束より少し早い時間に到着したせいで、雪かきが間に合わなかったのだろうか。

 車から降りてすぐ、不安は最高潮に達した。一面真っ白に染まった庭を横断するように、二、三メートルほどの長さの赤黒い線が一筋走っていたのだ。それは血痕だった。大量の血液が、庭の白い雪を染め上げていた。

 血痕の先には人影があった。分厚いコートを着た継父が、雪に塗れて仰向けに倒れている。その傍らには除雪機が放置されており、電源が切られていないのか、エンジンの低く唸る音が駐車スペースにまで届いていた。

 慌てて庭へと駆け出し継父の傍に跪いた俺は、そこで初めて、彼の右側頸部にボールペンが深々と突き刺さっていることに気づいた。

 声をかけてみても反応はなく、目を瞑ったままか細い声で呻くだけだった。俺はその場でスマートフォンを取り出し通報を済ませ、家の中からありったけのタオルを持ってきた。傷口からはだらだらと血が流れ続けている。刺傷を塞いでいる凶器を引き抜いてしまうと大量に出血する恐れがあったので、ボールペンには触らず、タオルで患部の周りを固定した。

 呼吸と脈が弱い。すぐに救急車のサイレンが近づいてきたが、俺はパニックになっていたと思う。肩を擦りながら呼びかけ続けていたら、継父が薄く目を開けた。

 視線がかち合う。瞬間、彼は唇を動かした。

「とうま……からだを……たいせつ……に……」

「無理して喋らなくていい。大丈夫だ、もうすぐ助けが来る。大丈夫だよ」

 肩を擦りながらそう言うと、彼は目を見開き、微かに首を横に振った。苦しげな表情で言葉を続ける。

「だいす……きだよ……」

 ――改めて振り返ってみれば、聞き取りに不安を覚える。つい先刻までは「大好きだよ」とはっきり聞こえたような気がしていたが、実際のところ語尾は掠れていたようにも思える。終助詞の「よ」は、俺が無意識のうちに付け加えたのかもしれない。俺は頭の中の黒板に書き記した「だいすきだよ」の、「よ」の部分をクリーナーで消した。

 妙な感じがする箇所は他にもあった。

 重傷を負って荒い呼吸をしている人間の声が途切れ途切れになるのは仕方がない。ただ、言葉を区切る場所がどうにも引っかかるのだ。人は「大好きだ」と言うとき、最も重要な意味を表す「大好き」という部分は一息に言うものではないだろうか。しかし彼のダイイングメッセージの場合、「だいす」と「きだ」の間に小休止があった。同様に、「大切」と「に」の間にも不自然な空白がある。

 俺はチョークを握り直すと、言葉が途切れていた部分に斜線を引いた。

 とうま/からだを/たいせつ/に

 だいす/きだ

「大切に」と「大好きだよ」、これら二つのフレーズを聞き違えているのなら、「身体を」だって自信がない。恐らく「冬馬」の部分は正確に聞き取れているはずだが、逆に言えば「冬馬」以外の全てのフレーズが曖昧で、不確かだった。

 継父は俺に呼びかけた後、本当は何と言っていたのだろう。

「何を伝えたかったんだよ」

 そっと問いかけてみても、ストレッチャーの上の継父は苦しそうに眉根を寄せるだけだった。ならば、俺が彼のダイイングメッセージを再構築するしかない。

 しかし俺にできるだろうか。彼と心を通わせることすらできなかったくせに、聞き違えた言葉から真意を読み取ろうだなんて、あまりにも無謀な試みだろう。

 それでも俺がやらなければならない。手がかりを持っているのは俺だけなのだから。

 俺が彼を刺した犯人を見つけるのだ。

 

   *

 

 継父を襲う可能性のある人物として、俺が最初に思い浮かべたのは赤羽弓枝(ゆみえ)だった。継父を忌み嫌う数少ない人物であり、彼の実姉である。

 赤羽弓枝は新潟市内の工務店で、社員大工として働いている。幼少の頃から建築関係の仕事に携わることを夢見ていた弓枝は、ほとんど女子生徒のいない工業高校の建築科を卒業して大工になったのだという。「姉ちゃんは意志が強いんだ」と継父が誇らしげに言うのを何度か聞いたことがあった。

 昔は仲の良い姉弟だったのだと、継父は少し寂しそうにこぼしていた。姉弟の関係が変わったきっかけは、継父と俺の母との結婚だった。弓枝は、二人が交際していたときから難色を示していたらしく、当然結婚にも反対していた。そして母が死に、継父が連れ子を引き取ることを決めてからというもの、関係はさらに悪化していった。

 高校二年の秋。部活から帰ると家の前に大きなバイクが停まっていた。継父は車しか持っていなかったので不審に思い、音を立てないよう慎重に玄関ドアを開けると、リビングの方から何やら言い争う声が聞こえてきた。

「あんたが面倒見る必要はないでしょ」

 俺はほとんど弓枝と話したことはなかったが、それが彼女の声だとすぐにわかった。「姉ちゃん、しつこいよ」と返すのは継父の声。

「何度もこの話はしただろ」

「こっちに何の相談もせず、あんたが勝手に決めただけじゃん」

「姉ちゃんに伺いを立てる必要はない」

「自分勝手すぎる。あの子だって、他人と暮らしてたら息が詰まるんじゃないの?」

「俺は冬馬の保護者だ」

 名前を出された瞬間、全身の筋肉が硬直した。――二人は俺のせいで言い争っている。

「本当に馬鹿じゃないの。あんたのそれは優しさでも何でもなくて、ただのかっこつけだよ。誰にアピールしてんだか」

「は?」彼の声が震えた。「何が言いたい?」

「香織さんはもう死んだのに、どうして取り繕う必要があるのって訊いてるんだよ」

「取り繕ってない」

「いいや、あんたはいつも人の顔色ばかり窺ってる。結局、世間体が一番大事なんだ」

「俺は、俺がこうありたいと望む自分でいたいだけだよ」

 弓枝は鼻で笑った。「いつかボロが出るさ」

 耳を塞ぎたくなるような口論が続いて、俺はこっそり玄関を出た。三十分ほど家の周りをウロウロして帰ってきたらカーポートからバイクが消えていたので、ようやく中へ入る。継父はダイニングテーブルに着いてお茶を飲んでいた。目が合うと、

「遅かったじゃないか」

 しばらくの間黙って見つめ合っていたが、そのうち沈黙に耐えきれなくなった。俺は宙を仰いで言った。

「卒業したら家を出るよ」

 彼は全てを察したようだった。「少し話をしよう」と俺を向かいの椅子に座らせる。

「前から言おうと思ってたんだが、冬馬、大学は家から通えるところにしてもいいんじゃないか?」

 高一のときに提出した進路希望調査票は、すべての欄を県外の大学で埋めていた。早く大人になって一人暮らしをして、自由になりたかった。

「冬馬の成績なら近くの国公立大学も狙えるだろ。あそこなら教育学部もあるし……」

「お金のこと?」

 被せるように問いかけると、彼は「えっ?」と目を丸くする。

「俺は母の保険金なんか、当てにしてません」

 冷たく尖った敬語がするりと口から出てきた。再び重い沈黙。たっぷり十秒ほど経って、継父はやっと口を開いた。

「冬馬のことが心配なんだ。一緒にいたい」

「……いつもそうやって聞こえのいいことばっかり。本当は出て行ってほしいくせに」

「そんなこと思ってないよ。ごめんな、俺が態度で示せていないんだろうな」

 テーブルに肘を突き、身を乗り出す。

「人は人の心を覗けない。冬馬に、俺の心の中を見せてやることはできない。でも俺が冬馬にとっていい保護者でありたいと願っているのは事実だし、それらしく振る舞っているつもりなんだよ。それでも安心できないかな」

 俺が首を横に振ると、継父は「じゃあ、もっと頑張るしかないな」と苦笑した。

 結局、俺は上越の家から通える大学に進学した。「一緒にいたい」という継父の言葉を信じたわけではなく、大学のカリキュラムと自分の偏差値を鑑みて選んだ進路だった。

 俺と継父との共同生活が継続することとなり、いよいよ姉弟仲は悪くなっていった。継父から直接聞いたことはないが、赤羽弓枝は俺が不在のときを狙って上越の家を訪問し、継父に嫌味を言っているようだった。

 

   *

 

 赤羽弓枝、と脳内の黒板に書き加える。もし弓枝が犯人だとしたら、聞き間違えたダイイングメッセージの中に彼女の名前や特徴などを表す言葉が紛れていた可能性が高いが、ざっと見たところ「あかばねゆみえ」と音韻、アクセント、音の長さなどが近い箇所は存在しなかった。

「とうま」は俺への呼びかけだ。であれば「からだを」以降が、継父の残したダイイングメッセージということになる。

 文頭に来るのはやはり、継父が一番伝えたがっている重要なフレーズだろう。息絶える前にどうしても言い残さなければならないと判断された、最も優先順位の高い情報である。例えば、犯人の名前。

 俺と継父の共通の知人の中に、下の名前で呼び合うような間柄の者はいない。継父が俺に犯人の名前を告げようとする場合、フルネームもしくは苗字で言い表そうとするはずだ。苗字を口にしていたのなら恐らく「からだを」の部分がそれに当たるし、フルネームの場合はもう少し長くなって「からだを/たいせつに」のあたりが呼応するだろう。いずれにせよ、「からだを」は犯人の苗字ということになる。

 思考の過程をまとめるように、気づいたことや疑問点などを黒板に書き殴っていると、

「わかんないです」

 背後で一つ声が響いた。振り返ると、そこには見慣れた光景が広がっていた。雑然と並べられた机、埃っぽい床。三年四組の教室には、三十二名の生徒たちが一人も欠けることなく揃っていた。教卓の上には現代文の教科書が載っている。

 声を上げたのは山里(やまざと)という男子生徒だった。国語の成績は振るわないのだが、いつも積極的に質問をしてくれるので、授業を進行するにあたっては頼りになる生徒だった。

 山里は黒板を指差しながら、もう一度「わかんないです」と言う。

「どこがわからないんだ?」

「清水先生の予想では、『身体を大切に』のあたりで犯人の名前を言ってるんでしょ? じゃあ、その後に続く『大好きだ』は何になるんですか? 先生のオトウサン、犯人の名前の他にも、何か伝えたいことがあったってことですか?」

 チョークを置き、腕を組む。この問題に関しては俺にもわからないことだらけなのだが、できるだけわかりやすく、今把握している情報をまとめてみよう。

「犯行現場に倒れていたあの人を発見したときのことを、じっくり思い返してみたんだよ。あのとき、彼は俺の姿を認めるとすぐに『冬馬、身体を大切に』と言ったんだ。そして俺が『無理して喋らなくていい』と応えると、一度首を横に振り、焦れたように続きの言葉を発した。

 恐らく彼は、最初に犯人の名前を口にしたんだろう。ところが俺が『無理して喋らなくていい』などと全く意図を汲み取っていない受け答えをしたために、焦ってもう一度口を開いた。だから『大好きだ』という後半部分は、前半を聞き取れなかった俺にさらなる犯人の特徴を伝えるための追加情報なんだと思う」

 山里は首を捻りながら「……なるほどぉ」と呟いた。

「じゃあ先生、その追加情報の方から先に考えましょうよ」

 山里の代わりに手を挙げたのは、高砂(たかさご)という女子生徒である。俺が顧問を務めている、かるた部のエースだ。普段は大人しいのだが、授業中に指名するとたまに核心をついた意見をくれることがある。

「『大好きだ』って形容動詞ですよね。ってことは、元の言葉も形容動詞だったんでしょうか?」

「そうと決まったわけじゃない。聞き間違いというのはときに、複雑な変化を起こす場合があるからな」

 クラス委員の宮沢(みやざわ)が質問を重ねる。「複雑って? 例えばどんな?」

「昔、俺の継父は『アイス来たよ』を『大好きだよ』と聞き間違えたことがあるんだが、これは結構、込み入った変化をしているんだ。『アイス来たよ』を形態素解析して品詞を判別すると、『アイス』は名詞、『来た』はカ行変格活用動詞のタ形、『よ』は終助詞となるが、一方『大好きだよ』は形容動詞の『大好きだ』と終助詞の『よ』に分解される。変換元と変換後では、単語数も品詞の種類も異なっているだろう」

 聞き間違いに一定のルールはない。俺が形容動詞『大好きだ』と聞き間違えたからといって、元の言葉が似たような形容動詞である保証はどこにもなく、変換のパターンは無限に広がっているのだ。これは骨が折れるぞと溜息を吐いたそのとき、後方の列に座っていた男子生徒がひらりと手を挙げた。

「はーい、先生。『アイス来たよ』を『大好きだよ』に聞き間違えるんなら、逆もあるんじゃないですか?」

 意見したのは中村(なかむら)という男子生徒である。クラスで一番成績がよく、二学期の期末テストでは学年一位をとっていた。

「清水先生はオトウサンが『大好きだ』って言ってるように聞こえたんですよね?」

「ああ」

「実はその『大好きだ』ってメッセージ、『アイス来た』みたいな感じで、元は名詞と動詞を組み合わせた文節だったんじゃないですか?」

 そうか、と俺は膝を打つ。

 もしも俺が聞き間違えた「だいす/きだ」のオリジナルが、「アイス/来た」のように三文字の名詞と動詞のタ形を組み合わせたフレーズだったとしたら、継父が「だいす」と「きだ」の間に空白を作るようにして喋ったことに説明がつく。

「名詞と動詞の組み合わせか。確かに、あり得るかもしれないな。もし『きだ』の変換元の動詞が、語幹が短く、かつその母音が『i』である動詞であると仮定すると、『来た』、『見た』、『行った』など一気に目撃証言らしいダイイングメッセージになる」

 おお、と教室がどよめいた。

「じゃあ、残った『だいす』について考えてみよう。ここに当てはまる名詞を探すんだ。音韻が共通するならば、あの人は『a』、『i』、『u』の母音を持つ三文字の名詞を口にしていたはずだ」

 詩人かラッパーならば韻を踏む単語を即座に思いつくのだろうが、残念ながら俺はしがない国語教師だ。五十音表を思い浮かべて総当たりしていくしかない。あ、い、う、という順番で口を動かしながら、母音の共通する普通名詞を並べていく。

 生徒たちは、思いつく限りの候補を次々と出していった。山里は「ライス!」と叫び、宮沢は真面目な顔で「マイク」と呟く。

 合図。アヒル。パイプ。大工。

「大工、か」

 継父と不仲であった実姉の職業は大工である。もし「だいす/きだ」のオリジナルが「大工、来た」だったとしたら。継父は、大工つまり赤羽弓枝が犯行現場にやってきた人物であると伝えようとしたのではないだろうか。

 しかし、高砂が不満そうに唇を歪めた。

「不自然じゃないですか?」

「そうだな。一応筋は通るが、少々不自然だ。赤羽弓枝が犯人であることを示そうとする場合は、その職業よりも姉弟という関係性を優先して伝達すべきだろう。『姉が来た』、『姉がやった』、『犯人は俺の姉だ』などと言えば、一発で伝わるのだから。最も重大で伝えやすい情報を無視して犯人の職業に言及するとは考えにくい」

 少しずつ前進しているように思えていたのに、また行き詰まった。

 やはり俺には無理だと嘆きたくなるのをぐっと堪えて、自分自身に言い聞かせる。あのときのことを思い出せ。雪に横たわる継父の姿を目にしたときのことを。周囲の状況や彼の浮かべていた表情こそが、俺の読み取るべき文脈なのだ。

 一面の雪と、一直線に飛び散った血痕。――継父の傍に除雪機が置かれていたということは、まさに除雪作業を始めようとしていたところを襲われたのだろうか。

 塀も門扉も設置されていないため、庭にいれば外の様子ははっきりと見える。それでも継父が犯人の接近に気づかなかったのは、きっと除雪機の音がうるさかったせいだろう。除雪機のエンジン音が、背後から迫る犯人の足音を搔き消したのだ。

 そうだ、あの家には塀がない。継父は倒れた状態でも、去っていく犯人の姿を見ることができたはずだ。

 犯人は走って逃げたのだろうか。はたまた車か自転車か。ともあれ継父は、犯人の逃走手段を知っていたはずである。

 財布、ナイフ、廃油、バイク。――バイク。

 その名詞を口にした瞬間、俺の愚かな聞き間違いは、瞬時に継父の声で上書きされた。

『バイク……行った』

「大好きだ」じゃなかった。彼は犯人の逃走手段を伝えようとしていたのだ。

 赤羽弓枝はバイクを所持している。やはり犯人は彼女だったのだと納得しかける一方で、もう一つの可能性が頭の片隅でちらついていた。

 バイクを運転する人物には、他にも心当たりがあるのだ。確か、(なお)くんもバイクに乗っていたはずだ。

 

   *

 

 俺の故郷である佐渡島の相川は季節風が直接吹き付ける西の海岸沿いに位置するため、それほど雪は積もらず、冬はスノーシャベルが一つあればそれで事足りた。継父とともに上越で暮らすようになって、同じ新潟でもここまで雪の降り方が違うのかと、その積雪量の多さに戸惑いを覚えた。

 上越の雪は固く湿っている。大量に降り積もった雪が日中の日差しで少しずつ解け、氷点下まで冷え込む夜間、氷のように押し固められるのだ。継父は固い雪を削るための小型除雪機を所持していた。フロント部分に鋭い回転刃が取り付けられた、ガソリン式の除雪機である。刃によって細かく削られた雪は除雪機の内部へと吸い上げられ、煙突状の排雪口から遠くに向かって吹き飛ばされるという仕組みだった。

 当初隣は空き家だったが、俺が高校二年の冬、その家のリフォームが始まって、春になると道間一家がやってきた。

 引っ越しの挨拶にきた道間孝文は、身だしなみに隙のない、四十代前半くらいの男だった。妻の美佳は三十代半ば。そして夫妻には高校生の息子、「直くん」がいた。孝文の祖父の代から道間家の男の名前は一文字目に「孝」が付くそうで、その下の漢字をニックネームとして呼んでいるようだった。

 道間夫妻は「直くんの高校入学を機に引っ越してきた」と言っていたが、なんとなく、うちと同じような雰囲気を感じさせる家庭だった。普通、家を買うのは子どもが小さいときだろうから。案の定、再婚だという噂が流れてきた。直くんは父方の連れ子らしい。――ほどなくして道間家には、新しい子どもが生まれる。確か、楓花(ふうか)ちゃんという名前の女の子だった。直くんにとっては半分だけ血の繫がった妹である。

 歳も近く、似たような立場に置かれていた俺と直くんだが、喋ったことはほとんどない。高校も違ったし、直くんはそもそもあまり学校に通っていないようだったので、通学時間に鉢合わせることもなかったのだ。それに直くんは、周囲の人間全てを遠ざけようとしているかのような、陰鬱なオーラをいつも身に纏っていたから、正直なところ話し掛けづらかった。

 対照的に父親の孝文はとても社交的な人物で、継父はすぐに孝文と親しくなった。道間一家が家庭用の除雪機を持っていないと言うので、冬になると、継父は孝文に除雪機を貸してやっていた。

 隣の道間家から返却されたばかりの除雪機を使うと、ごくたまに排雪口から色のついた雪が噴射されることがあった。蛍光ピンクの雪が一面真っ白な庭に向かって勢いよく飛んでいき、鮮やかなラインを描く。俺が驚いていると、「スノースプレーだよ」と継父は言った。

「雪道に指示標示が書いてあるのを見たことないか? あんなふうに、雪に直接吹き付けられるスプレーが売っているんだよ。この間、お隣の楓花ちゃんが家の前の雪にスプレーで絵を描いて遊んでるのを見た。それが排雪口から出てきてるんじゃないかな」

 継父は道間家に除雪機を貸し出す際、除雪機を簡易車庫に格納して運ぶことにしていた。この簡易車庫というのは金網でできた小さな箱のようなもので、底にはキャスターがついている。これを台車として利用すればエンジンを切ったまま除雪機を運ぶことができるため、道間宅で削り取られた雪がそのまま除雪部や排雪口にくっついて返ってきているのだろう、と継父は予想した。

 ピンクの雪が飛び散っていく様を見る度、俺は憂いに沈んだ。無邪気に遊ぶ妹を横目に、直くんは何を思っているのだろう。肩身の狭い思いをしてはいないだろうかと、勝手に心配していた。

 孝文は礼儀正しい人物で、除雪機を返却するときはいつも燃料を満タンにしてくれていた。しかし一度だけ、継父を怒らせたことがある。七、八年前――確か、大学一年の大晦日。ひと晩で百センチ積もるほどの大雪が降った日のことだった。

 その日、俺は朝から継父と二人で庭の除雪作業を行おうとしていた。継父が除雪機を、俺がスノーシャベルを倉庫から引っ張りだして外に出てみると、隣の屋根の上に人影があった。孝文だ。屋根の上に降り積もった雪を一人で下ろしているようだった。

 孝文は継父の姿を認めると、「今日も凄い雪だなぁ」と手を振った。継父は眉を顰める。

「道間さん、ハーネスなしでの作業は危ないですよ」

「大丈夫だよ。バランス感覚と力仕事には自信がある」

「お一人ですよね。ご家族には屋根に上るって報告してきました?」

 言うまでもなく、屋根の雪下ろしを一人で行うのは危険だ。音もなく落下して、雪に埋もれたまま発見が遅れることがままあるので、一人で作業するときは雪下ろしをする旨を他の誰かに伝えるのが基本だった。

「今、家には直しかいないんだよ」

「直くんに伝えてきたってことですか?」

「いいや。あの子は俺と話そうとしない」

 孝文は苦笑する。

「この時期は毎年妻と娘だけ、里に帰省してるんだよ。男二人だと、家の中が暗くていけないね」

 継父は「はあ」と曖昧な相槌(あいづち)を打った。道間美佳と楓花ちゃんの二人だけが里帰りする理由は何となく察せられた。きっと孝文は義実家と折り合いが悪いのだろう。

 俺たちが家の前の除雪作業を終える頃には、隣の屋根の雪はすっかり綺麗に無くなっていた。屋根から下りてきた孝文は、「そっちの作業が終わったのなら除雪機を貸してほしい」と言った。継父は快諾して、いつもの如く簡易車庫に格納された除雪機を孝文に渡した。

 孝文は俺たちを一瞥し、唇の端を曲げた。

「清水さんのところはいつも冬馬くんが手伝ってくれていいね。うちの直なんか、学校サボってバイクを乗り回すばっかりで」

 ちょうどそのとき、ブオンと大きくエンジンをふかす音がすぐ近くから聞こえてきた。続けて、スノータイヤが路面を引っ搔く音。直くんがバイクに跨って道間家のガレージを出て行くところだった。フルフェイスのヘルメットのせいで、その表情は窺い知れない。

「ほら、すぐあれだよ。俺は直の考えてることがちっともわからん」

 孝文が嘲るように笑うのを、継父は何とも言えない顔をして聞いていた。

 俺たちが家の中に入っても、孝文は一人で除雪作業を続けていた。継父と並んで窓辺に立ち、孝文が除雪機を動かすのを何となく眺めていた。排雪口から勢いよく雪が飛び出しているのが、ここからでもはっきりと見える。

 孝文は除雪機をバック走行に切り替えて、ゆっくりと後退っていた。その後ろ姿がえらく寂しく、無防備に見えたのを覚えている。

 突如として継父が窓を開け、孝文に向かって怒鳴った。

「道間さん、危ない!」

 孝文の手元を見て、俺はようやく継父の剣幕の理由を理解する。孝文は手を離しても除雪機が走り続けるよう、クラッチレバーに紐を巻きつけて運転していたのだ。

 鋭い回転刃を備えた除雪機は、ときに雪だけでなく使用者の手や足まで巻き込み、酷い事故を引き起こす。そのため継父の除雪機には、「デッドマンクラッチ機構」という安全機能が装備されていた。操作ハンドルに取り付けられたクラッチレバーから手が離れると、除雪機の走行と除雪部の回転が止まるという仕組みである。使用者が転倒したときなどにはすぐさまこの安全機能が作動し、除雪機が停止するようになっていた。

 しかし中には、少し手を離すだけで動きが止まってしまうのを面倒がって、クラッチレバーを固定し、除雪機がひとりでに動き続けるように細工してしまう人もいる。孝文がそうだった。

 継父はコートも着ずに家を飛び出し、隣の敷地へと向かう。孝文を真っ直ぐに見据えると、「二度としないでください!」と厳しい声で言った。

「もし今道間さんが転んだら、除雪機はあなたの方に向かって走り続けるんですよ。俺は昔、近所の人がそうやって除雪機に足を巻き込まれたのを目の前で見たことがあるんです」

 孝文はバツが悪そうな顔で継父の説教を聞いていたが、反省しているわけではなさそうだった。実際俺はその後も何度か、孝文が継父の目を盗んでこっそりクラッチレバーを固定している姿を目撃したことがある。

 継父と孝文との間で起きたその小さなトラブルを諍いと呼ぶこともできるだろうが、彼らがそれをきっかけに仲違いするようなことは決してなかった。そもそも継父は孝文の身を案じるあまり咄嗟に大声を出してしまっただけなのだから、感謝されこそすれ恨まれる筋合いはない。その後も継父は道間家に除雪機を貸し出していたし、孝文はいつも燃料を満タンにして返却していた。

 ところが昨夜、継父から電話をもらったときは、いつもと少し様子が違ったように思う。

 スマホの着信相手に継父の名前が表示されているのを見て、俺は怪訝に思った。大晦日に帰省すると既に約束しているのに、どうしてわざわざ前日の夜に電話をかけてくるのだろう。何か向こうでトラブルでも起きたのだろうか。

 俺が電話に出ると、継父は開口一番『冬馬、明日はちょっと遅れてきてくれないか』と言った。「なんで」と尋ねると、少し言い淀む。

『駐車スペースの雪かきができてないんだ。冬馬の車が停められない』

 十二月三十日の午後、継父は買い物に行こうと外に出たところで、孝文から声を掛けられたのだという。除雪機を貸してくれ、夜には返すから、と。それで出かける前に道間家に寄り、いつものように除雪機を貸したそうだ。

 買い物から帰宅してからというもの、継父は孝文が除雪機を返却しにくるのをずっと待っていたそうだが、夜になってもまだ孝文は姿を現さないのだという。

『道間さん家の駐車場には車が置いてあったから、急用ができてどこかに出かけたってわけでもなさそうなんだけどな。でもスマホにメッセージを入れても返事がないんだ』

「相手が家にいるなら、今から取りに行けばいいじゃないか」

『いや、もう遅いからやめておくよ。明日の朝に伺うことにする。除雪機を返してもらってからカーポートの雪かきをすることになるだろうから、冬馬は午後から来てくれよ。それまでにはちゃんと綺麗にしておくからさ』

 どうして昨夜、孝文は除雪機を返しにこなかったのだろう。いくら忙しかったとしても、除雪機を隣の家に届けることくらい、簡単に出来そうなものなのに。継父が「駐車場には車が置いてあった」と証言していたことからも、孝文が家の中にいたことはわかっている。

 何か家の外に出ることができない事情でもあったのだろうか。例えば、病気とか、怪我とか。道間孝文が怪我をする姿は簡単に想像できる。元より人の忠告を無視して命綱なしで屋根に上ったり、除雪機の安全装置を勝手に無効化したりするような人だった。除雪作業をしているときに足でも捻挫して、動けなくなっているのかもしれない。

 道間孝文は軽率で、自分の力を過信するところのある人だった。そんな父親のことを、直くんはどう思っていたのだろう。ごくまれに街ですれ違うとき、直くんは無表情で、背中を丸めて俯いていた。きっと父親に振り回されて辛い思いをしてきたのだろうと勝手に心配していたが、不思議なことに直くんは今も実家に居座っているという。確か俺の二つ下だったから、直くんは今年二十四歳になっているはずだった。

 継父との電話を終えた直後は、「孝文が家の外に出られなかったのなら、道間美佳が代わりに返却しにきてくれればよかったのに」と思っていたが、よくよく考えてみれば美佳が孝文の代わりを務めることなどできるはずがなかった。孝文は「この時期は毎年妻と娘だけ帰省している」と言っていた。きっと美佳と楓花ちゃんは今頃、里に帰っているのだろう。

 昨日、道間家には孝文と直くんしかいなかったのだ。

 

   *

 

『バイク……行った』

 継父の身の回りでバイクを運転する者として、最初に思い浮かんだのはやはり赤羽弓枝だった。しかし、隣に住んでいる道間家の、直くんもバイクを乗り回していた。継父のダイイングメッセージに含まれていた「バイク」が弓枝でなく、直くんのものを指している可能性はないだろうか。

「清水先生、たぶん直くんが犯人なんですよ。何となくそんな気がする。オトウサンの『バイク行った』って台詞は、きっと直くんのバイクのことを言ってるんだ」

 山里の発言を皮切りに、教室のあちこちから声が上がった。

「でも、直くんにはオトウサンを殺す動機がないじゃん」

「じゃあ直くんは無関係なのかな」

「わたしはやっぱり、赤羽弓枝が犯人だと思うよ」

「えー、じゃあオトウサンは自分のお姉さんに殺されちゃったってこと?」

 次第に収拾がつかなくなってきた。俺は咳払いを一つして、興奮気味の生徒たちを「静かに」と制する。

「一旦、バイクの問題は脇に置いておこう」

「でも先生……」

「わからない問題があったら、一旦放っておいてもいいんだよ。テストで難問に当たったときと一緒だ。判断のつかない問題は飛ばして、余った時間を使って最後にもう一度立ち返ればいい。――ダイイングメッセージの前半部分について考えてみようか。俺の予測では、継父は言い始めのあたりで犯人の名前を口にしているはずなんだ。やはり『からだを』が苗字なんだろうか」

 音韻の共通する苗字はなかなか思いつかない。高砂、山里といった苗字ならば完全に母音が一致するが、「先生、俺は犯人じゃないっすよ」と山里。高砂も「私だって違いますよ」と口を尖らせる。

 宮沢がまっすぐに手を挙げていた。指名すると、椅子から立ってハキハキと答える。

「先生、わたし気づきました。犯人は赤羽弓枝です」

「どうしてそう思うんだ?」

「だって、赤羽っていう苗字には『あ』の母音が三つ含まれてるじゃないですか。きっと先生は、『あかばね』を『からだを』と聞き間違えたんですよ」

「まあ確かに音韻は似通っているが、どうも無理やりすぎる感じがするな。それに、『大工』のときと同じことが言える。赤羽弓枝が犯人だとしたら、継父はわざわざ苗字を伝えるようなことはせず、『姉ちゃん』と言うはずだろう」

 喉元に異物がつっかえているような、漠然とした違和感がある。何かを見落としているような気がするのに、それを上手く言語化することができないのだ。握りしめたチョークが手の中で砕けた。

 教室の隅の方で、中村が「やっぱり無理ですよ」と呟くのが聞こえた。

「清水先生、俺たちに論説文の問題を解かせるとき、よく『前後の文脈を読み取れ』って言うじゃないですか。その一文の意味がわからなくても、文の前後に必ずヒントが隠されてるからそこをよく読めって。でも、このダイイングメッセージはたったの二言だけで、文の前後がない。ほとんどノーヒントで本当のダイイングメッセージを探るなんて、土台無理な話だったんですよ」

 中村は成績優秀だが、テストの答案用紙には思いのほか空欄が多い。自分の想定外の難問に出くわすと、すぐに諦めてしまう癖があるのだと思う。

 俺も学生時代は似たような生徒だったから、気持ちは十分理解できる。

「中村、先生は『なるべく空欄を埋めるようにしよう』とよく言ってるだろ。わからない問題は飛ばしてもいいが、制限時間ぎりぎりまで考える努力はするべきだ」

「無理矢理捻りだした答えって、大抵間違ってるじゃないですか」

「間違うのは悪いことじゃない」

 自分自身に言い聞かせるように、声に力を込める。

「大切な試験で難しい問題に直面したとき、簡単に諦めてしまわないようにするためには、普段から根気よく考える訓練をしなきゃいけない。だから先生たちは『空欄を埋めろ』と口を酸っぱくして言うんだよ。そして、これは決して諦めてはならない場面だ」

「ふうん」

「それにな、ダイイングメッセージにも文脈はあるんだよ」

 もう一度文脈を読み取るのだ。俺と継父にとっての文脈とは犯行現場の記憶であり、これまでともに過ごした時間の全てである。

 首から血を流し、仰向けに倒れた継父と、その傍らでエンジン音を鳴らしていた除雪機が脳裏を過る。昨夜の電話で、継父は「カーポートの雪かきをしたいのに、お隣から除雪機をまだ返してもらっていない」というようなことを言っていた。庭にあれが置いてあったということは、継父は今朝になって道間家を訪ね、「除雪機を返却してくれ」と言ったのだろう。

 庭は一面の雪に覆われていた。固く湿った上越の雪だ。その白を横切るように飛び散った大量の血液が、強烈なコントラストを生み出していた。

 凄惨な光景を脳内のスクリーンに映し出す度、曖昧だった疑念が急速に具体的な形を帯びていく。俺は無意識のうちにシャツの胸元をぎゅっと握りしめていた。

「……ありえない」

 継父を発見したとき、その首筋にはボールペンが刺さっていて血がだらだらと流れ出ていたが、大量出血を恐れた俺は傷口には一切触らなかった。そして今も、ボールペンは深く刺さったまま引き抜かれていない。もちろん重傷であることに変わりはないが、少なくとも首筋から勢いよく血が飛び散るような事態は避けられていたはずだ。

 では、庭に残されていたあの大量の血痕は、一体誰のものだったのだろう。

 俺はもう一度黒板を注視する。白いチョークで描かれた線を見つめているうちに、やがて「せつ」という二文字は「雪」へと変換された。

 とうま/からだを/たい雪/に

 バイク/行った

 除雪機という言葉が真っ先に浮かんだ。「たいせつ/に」とはあまりにも音韻がかけ離れているのに、仰向けに倒れた継父の傍でエンジン音を立てていた除雪機が、なぜだか頭から離れてくれない。

 俺は記憶の中の除雪機を、隅々まで観察した。事故防止のために装備されたクラッチレバー、固い雪を砕く回転刃、削れた雪を吸い込んで遠くへと吐き出す排雪口。

『はいせつ……ち』

 排雪口。

 継父は「大切に」ではなく「はいせつぐち」と言ったのかもしれない。俺が単語の中間部分を聞き取れていなかったのだとしたら、「たいせつ……に」と聞き間違えたとしても不自然ではないだろう。排雪口、排雪口と繰り返し呟くうち、継父と交わした会話が、過去の記憶が鮮明になっていった。

 隣から返却された直後の除雪機を使用すると、排雪口からピンクの雪が出てくることがあった。それを見た継父は、『スノースプレーだよ』と言っていたっけ。楓花ちゃんのスノースプレーによってピンクに染められた道間家の敷地内の雪が、除雪機の内部に溜まったままうちの庭まで運ばれてきたため、あのような現象が起こっていたのだ。

 継父のダイイングメッセージが頭の芯に響く。

『はいせつ……ち』

 あの大量の血液が、もとは隣の家のものだったという可能性はないだろうか。

 例えば道間孝文が除雪機に身体を巻き込まれていたのだとしたら、その血や肉片は回転刃だけでなく、除雪機内部の機構や排雪口にもこびりつく。そして除雪機は継父の元へと返却され、継父がそれを使うときになって、血に染まった雪が勢いよく排出される。庭を横切るように、排雪口から真っすぐに伸びていく大量の血液――あの血は、道間孝文のものだったのだ。

 孝文は継父の忠告を無視して、安全機能が作動しない状態で除雪機を使用していた。バック走行をしている最中に転倒してしまえば、彼の足は瞬く間に除雪部へと巻き込まれていっただろう。

「そうか、殺されたのか」

 張り詰めた空気が満ちた教室で、俺の独り言がいやに響いた。

 山里は心底不思議そうに問う。

「殺されたってどういう意味ですか?」

「そのままの意味だよ。道間孝文は怪我をして動けなくなったわけじゃない。殺されたから除雪機を返しに来られなかったんだ。安全機能を失った除雪機を使えば、犯人は簡単に孝文を殺せたはずだ」

「……えっ?」

「背を向けた相手を転ばすことなど容易だ。障害物を置いておけば勝手に足を引っ掛けてくれるかもしれないし、不意打ちで背後から殴りかかれば確実に体勢を崩すことができる。そうすれば後は、除雪機が孝文の爪先を、脛を、太腿を砕きながら進んでくれるのを見ているだけでいい。――犯人は孝文を殺害した後、除雪機の回転刃を取り外して血を拭い、簡易車庫に格納したんだろう。その除雪機はいつものごとく継父の元に返ってきた。そして継父の目の前で、隣の道間家から運搬されてきた血液を排出したんだよ。だから庭は血塗れだったんだ」

 中村が言った。

「でもやっぱり、殺人とは限らないんじゃないですか? ただ転んで足を巻き込んじゃっただけかもしれませんよ。事故だった可能性だって捨てきれない」

「仮に事故だったとしたら、警察や救急車がやってきて近所にもその騒ぎが伝わったはずだろう。でも継父は昨夜の電話では、そんなこと一言も言わなかった」

「じゃあ、誰がやったんですか?」

「直くんに決まってるさ。昨日道間家にいたのは、直くんと孝文の二人きりだったんだからな」

「じゃあ直くんは、自分のお父さんを殺したってことですか?」

 実の父を手にかける動機など、赤の他人である俺には想像することもできないが、「直の考えていることがわからない」とぼやいていた孝文の表情はいつまでも瞼の裏に焼き付いていた。

 恐らく直くんは、排雪口にこびりついた血や肉片にまでは気が回らなかったのだろう。だから今朝、継父が除雪機を引き取りに行った際、凶器である除雪機を素直に返却してしまった。回転刃に付着した血さえ拭ってしまえばバレないとでも思っていたのかもしれない。

 しかし継父が除雪機を駆動した瞬間、排雪口からは大量の血が噴射された。直くんは隣家の窓から見てしまったのだ。孝文の血が白い雪を汚すところを。継父が驚きのあまり身を固くしているところを。

「口封じのための襲撃。これなら、人から恨みを買うはずのない継父が狙われたことに説明がつく。それに道間家の男は、代々名前の一文字目に『孝』を付けるんだ。直くんの名前は孝直(たかなお)。『からだを』とは母音が全て一致する」

「でも、なんだか変ですよ。確かに韻は踏んでいるけど、清水先生のオトウサン、いきなり直くんの下の名前を伝えようとするでしょうか?」

 継父が俺の名を呼ぶ声が、耳元で響く。

『冬馬……身体を……大切……に。大好……きだよ』

 頭を力いっぱい殴られたような衝撃を感じた。「とうま」じゃない。彼は「どうま」と言ったんだ。

『道間孝直……排雪口……バイク、行った』

 継父は初めに犯人の名前を口にした。それでも俺が意図を解さなかったので、排雪口に残った重要な証拠と、犯人の逃走手段という情報を追加したのだ。

 除雪機の血を目撃されたことにより激しく動揺した直くんは、衝動的に継父を襲ってしまった後、恐怖のあまりすぐさまバイクで逃走したのだろう。継父は隣の家から犯人が逃げていく姿を見ていたのだ。

「そうだよな。『大好きだよ』なんて馬鹿馬鹿しいよな」

 現場に残された除雪機や雪を調べるまでは、この推理が正しいかどうかは確定しない。でも――あんなに苦痛に満ちた表情で愛の言葉を伝える人間がいるだろうか? あれは突然命を奪われることになった者の、無念の表情だった。決して、息子を気遣って優しい言葉をかけるときの目ではなかった。

 ああ、これから忙しくなる。警察にきちんと捜査してもらうためには、何と説明すればいいだろうか。今後の段取りを考えながら、自分の胸の内に暗雲が垂れ込めていくのを感じていた。

 どうして彼の言葉を聞き間違えたんだ。自分の想像力の乏しさに失望する。死にかけている人間が「身体を大切に」なんて、言えるわけがないのに。

 三年四組の教室は、いつのまにかひどく静まり返っていた。

 人は人に教えることによって、より物事の理解を深めることができる。だから俺は困難な問題に直面したとき、教壇に立って生徒とやり取りする自分をイメージしながら論理を組み立てる。

 俺は既に答えを導き出した。頭の中の生徒たちはもう役目を終えているはずだったが、しかし、まだ教室に居残っている生徒が一人いる。

「やっぱり、先生は愛されてなかったんですか」

 皮肉っぽく響いたその声は俺が受け持っている生徒のものではなかったが、確かに聞き覚えがあった。

 教壇のすぐ前の席に、男子生徒が一人、行儀よく座っていた。それは鏡の中の俺によく似た姿をしている。中学三年生の清水冬馬だった。

 継父だって人間なのだから、当然自分を襲った犯人のことが憎いだろう。罪を償わせたいだろう。何を傷つく必要がある。そう自分に言い聞かせながらも、もう一人の自分が――俺の知らない俺が、「あの人なら最後に俺の名前を呼んでくれると思っていたのに」と不貞腐れている。

「清水冬馬は愛されてなかったんだ」

 バイタルモニターが不吉なアラームを鳴らし、俺は勢いよく顔を上げた。

 それは脈拍の停止を知らせる音だった。救急隊員が継父の口元に呼吸器を取り付ける。走り続ける救急車の中で心臓マッサージが始まった。

 彼はもうじき死ぬ。

 冬馬、じゃなかった。継父が最後に選んだ言葉は、俺の名前ではなかった。

 

   *

 

 さっきから、どうにも彼との思い出ばかりが浮かぶ。走馬灯を見るのは死にゆく者だけではないのかもしれない。

 頭の中のスクリーンに映し出されたのは、大学四年の夏の記憶だった。あれは教員採用選考の二次検査を受けた日だった。個人面接を終えて俺が帰宅すると、継父は玄関まで出迎えて、「どうだった?」と急いた様子で尋ねてきた。

「緊張したろ。練習通りやれたか?」

「うん。上手くできたと思う」

「本当に? 本当に大丈夫だったか?」

「今は教員が不足してる時代だから。よっぽどヘマをやらかさなければ通るよ」

 ほっとしたように「そうか」と言う。彼の方がよっぽど緊張していたようで、それがなんだかおかしかった。

 夕飯は継父が用意してくれていた。継父の職場近くにある惣菜屋の天ぷらがテーブルいっぱいに並んでいる。俺の好物だった。

 向かい合わせで食事を摂りながら、継父がぽつりと言った。

「どうして冬馬は、学校の先生になりたいと思ったんだ?」

 これまでも何度か、似たような質問を投げかけられたことがあった。

「小中高と、担任に恵まれてたからかな」

 当たり障りのない答えを返すと、さらに「印象に残ってる先生はいる?」と尋ねられる。突っ込んだことを訊かれたのは初めてだった。

「中三のときの担任のことをよく覚えてる」

「いい先生だった?」

「うん。俺の話を親身に聞いてくれる、いい人だった。……あの頃はちょうど、母さんの再婚が現実的になってきた頃でさ」

 継父がはっと息を吞む音が聞こえた。これまで避けてきた話題に触れてみたくなったのは、試験が終わったばかりで気が緩んでいたからか、それとも継父を困らせてやりたいという幼稚な欲求を燻ぶらせ続けてきたせいか。

「母さんからその話を聞くのが気まずかったんだ。だから家に帰りたくなくて放課後、学校に残ることが多くなった。そうしたら当時の担任がそれを聞きつけて、よく教室に顔を出すようになった。『清水君は現代文の成績がイマイチだから、この機会にみっちり基礎からやり直すか』と言って、課題を見てくれるようになったんだ。国語の先生だった」

 先生とともに教室に居残って、現代文のワークをひたすら復習する。そんな日が何日か続いて、ある日とうとう「家に帰りたくない」という本音がぽろりと出てきた。すると先生は、心配そうに俺の顔を覗き込んで言った。

『先生に何かできることはある?』

 ――ないですよ。先生は赤の他人じゃないですか。

『清水君は冷たい考え方をするなぁ。赤の他人って言ったって、こんな狭い教室で毎日顔を突き合わせてるんだぞ。話くらい、聞かせてくれたっていいじゃないか』

 いつしか俺は、先生に向かって生々しい不安を吐露していた。先生は結局赤の他人だから、俺の家庭の事情についてはアドバイスの一つもくれなかった。でも。

「俺の話を聞いてくれて、勉強を教えてくれて、それだけで嬉しかったんだ。少しだけ不安が和らいだような気がした」

 継父はしばらく黙って天ぷらをつついていた。穏やかな沈黙が続く。食卓のものをあらかた食べ尽くして、彼はようやく口を開いた。

「俺が不甲斐ないばっかりに、悲しい思いをさせたな」

 顔を上げると、継父はひどく優しい笑みを浮かべていた。

「でも冬馬の周りに、優しい大人がいてくれてよかった」

 俺はその年の教員採用選考に合格し、次の春から中学校教諭として働くことが決まった。

 雪解けの季節。上越の家を出る日になって、俺は初めて継父に向かって頭を下げた。

「七年間、ご迷惑をおかけしました」

 悲しそうに目を伏せ、「迷惑だなんて……」と呟く彼。思わず目を逸らした。

「でも俺を引き取ったせいで、伯母さんとの関係が悪くなっただろ」

「姉ちゃんのことなら気にするな。冬馬のせいじゃない」

 引越社のトラックが家の前に停まったとき、継父は意を決したように口を開いた。

「姉ちゃんは冬馬のことを悪く言ったことは一度もない。俺を責めてたんだよ。――実は俺たち姉弟も、再婚家庭の子どもだったんだ。うちの母ちゃん、俺たちと血が繫がってないんだよ」

「……初めて聞いた」

「初めて言うからな」

 訊けば、継父の戸籍上の母親は、彼が幼い頃に病死したらしい。そして中学生のときに父親が再婚して、新しい母が家にやってきた。

「俺も姉貴も、本当は再婚してほしくなかったんだが、幸せそうにしてる父ちゃん見たら何も言えなかった。ある日突然知らない女の人が家にやってきて、家族として過ごせって言われて混乱した。当然母ちゃんだって俺たちに気を遣ってただろうが、顔色窺ってばっかりで息が詰まったよ。一つ屋根の下で他人と暮らすっていうのは、もの凄いストレスだった。だから姉貴は俺と香織さんとの結婚に反対したんだ。あのときどれだけ苦しかったか忘れたのか、ってな。冬馬くんに重荷を背負わせるなと何度も言われた」

 継父が俺の母との結婚を決めたとき、赤羽弓枝はこう詰ったという。

 ――そりゃあ子どもは、親の前では『賛成だよ』って言うに決まってるよ。そうしないと生きていけないからね。あんた、正気か? あの子に私たちと同じ思いをさせるのか?

「姉ちゃんとごたついてるのは、俺たちの問題だ。余計な心配をかけて本当にごめんな」

 決まりが悪くなって、頰を搔く。

「そう言われても信じられないよ。やっぱり、俺は伯母さんに嫌われてる気がする」

「今は疑ったままでもいいさ」

 別れ際、継父は言った。

「学校の先生は忙しいよ。大変な仕事だ」

「わかってる」

「うん。冬馬ならきっとやっていける。電話するよ。――身体を大切にな」

 家を出たばかりの頃は、数週間に一度のペースで電話がかかってきていた。頻度はだんだんと減ってきてはいたが、それでも数ヵ月に一度は連絡をもらっていたと思う。

 七日前の夜もそうだった。午後七時過ぎ、電話口から継父の明るい声が聞こえて、俺はなんだか泣きそうになった。

『最近どうだ。変わりはないか』

「まあ、何とかやってるよ。そっちは?」

 天気の話から始まって、当たり障りのない世間話を経由し、互いに近況報告をする。継父はやがて、恐る恐るといった具合で俺の冬休みの予定を尋ねてきた。

「今年は忙しいんだ。仕事の方が色々と」

『去年もそう言って、結局二年も会ってないじゃないか。年末くらい顔を見せてくれよ』

「あー、考えておく」

『また俺の言葉を疑ってるんだろう。俺は本気で会いたいんだよ――そうだ、雪だ。今年も上越の方は雪が凄いんだ。雪かきを手伝ってくれないか』

 結局継父に押し切られる形で、大晦日に訪問することを約束した。電話を切る直前、彼はいつもの決まり文句を口にした。

『じゃあ、またな。冬馬、身体を大切に』

 何十回と聞いた言葉だった。継父は電話の最後にはいつも「冬馬、身体を大切に」と言っていたから、それを彼の声で再生するのはたやすい。

 どうやら俺は、最後に最も重要な謎を解かなければならないようだ。――俺はなぜ、継父のダイイングメッセージを聞き間違えたのだろう。

 彼の言葉が途切れ途切れだったからだろうか。それとも救急車のサイレンが、雪を踏みしめる音がうるさかったからだろうか。いや、違う。それらはどれも些細な要因だった。

 あの日のレストランで、彼が母の言葉を聞き取ることに失敗したのは、「アイス来たよ」が予想外の台詞だったからだ。そして「アイス来たよ」よりも「大好きだよ」の方が耳慣れた言葉だったから、頭の中でそう変換された。きっと彼は、それまで母から何度も「大好きだよ」と言われていたのだろう。

『ガープの世界』のウォルトは引き波という単語を知らなかったから、それはより分かりやすい言葉に――ウォルトがよく知るヒキガエルという単語に置き換えられた。

 人は聞き馴染みのない言葉に遭遇すると、それを頭の中でより聞き馴染みのある別の言葉へと変換する。そうして聞き間違いという現象が起こる。

 どうして今の今まで、あの声を忘れていられたんだろう。父を殺した直くんと、重体の継父に付き添って救急車に乗り込んだ俺とを分かつものは、たった一つだけだったのに。

 

   *

 

 心なしか、救急車のスピードが落ちているような気がした。二人の救急隊員たちは何度も交替しながら心肺蘇生を続けているが、一向に脈拍が戻る気配はない。

 救急隊員は医師ではないので、救急車の中で傷病者の死亡を判断するのは難しいと聞いたことがある。たとえストレッチャーに寝転んでいるのがほぼ死人であっても、搬送先の病院に到着するまでは心臓マッサージを止められないのだろう。隊員たちの顔には既に、諦めの表情が浮かんでいるように見える。

「死んだんですか?」

 彼らは俺の質問を黙殺した。答えは出ている。

 近くで耳障りな音が鳴っている。まるで獣の鳴声だ。それは俺の喉の奥から絞り出された、醜い呻き声だった。

 彼のダイイングメッセージを解読したところで何の意味があるというのだろう。俺は体を折って頭を抱え込み、荒い呼吸を繰り返す。何もかも遅い。彼は死んだ、殺されてしまったのだから。

 そのとき一人の隊員が、俺の肩をそっと揺すった。

「聴覚というのは、最後の最後まで残る感覚なんです」

 顔を上げるとしっかりと目が合う。もう一人の隊員も、心臓マッサージの手を止めずに俺の方を振り返った。

「今なら聞こえるかもしれません。話しかけてあげてください」

 二、三度深呼吸を繰り返すと、頭に新鮮な空気が流れ込んでくる。俺は揺れる車内で、ゆっくりと身を乗り出した。俺に与えられた最後のチャンスだった。

 彼に送る最後の言葉は、何がいいだろう。「ちゃんと除雪機を調べるよ」とか「道間孝直のことを警察に報告するよ」とでも言えば、彼は安心して逝けるだろうか。しかし、どれも違う気がした。

 彼の右耳に顔を寄せ、「父さん」と呼びかけてみる。

「父さん、ちゃんと伝わってるよ」

 父が俺のことをどう思っていたか、今でもよくわからない。でもそんなことはどうでもいいのだ。彼の真意を探るのはもうやめにしよう。たとえ心の中を覗けなくとも、父が俺のよき保護者でありたいと願っていたことは紛れもない事実である。父が俺にくれた言葉は消えない。

 父は凄い人だと思う。言葉で、態度で、俺への愛情を示し続けてくれた。ひねくれものの俺があなたの愛情を信じるまで。

 そうだ。俺はあなたに愛されていると信じている。だから聞き間違えた。

 俺の耳は、「冬馬、身体を大切に。大好きだよ」という言葉を、父の最後の言葉としてふさわしいと判断した。それが聞き馴染みのある言葉だったから――父が何度も「身体を大切に」と言ってくれたから。だから聞き間違えた。

 父の最後の言葉が何であろうと、俺があのダイイングメッセージを温かい愛の言葉と錯覚したという事実が一つあれば、もう十分じゃないか。

 決して父が聞き間違うことのないよう、俺ははっきりとその言葉を口にする。溢れんばかりの感謝の気持ちと、僅かばかりの愛情を込めて。

「父さん、アイス来たよ」

 父の心臓と呼吸が止まってから約一分後、救急車は病院の駐車場に到着した。