書評

探検の現場で感じる
生感覚を言葉にしたエッセイ集

『探検家、36歳の憂鬱』 (角幡唯介 著)

 そもそも探検や冒険というのは大なり小なり死に対するリスクを覚悟した上で行うわけで、この雪崩の体験以外にも、私には危険な目に遭ったり、死を意識したりした場面が何度かあった。そのような体験を何度か繰り返すと、私のようなはしたない人間でも、お釈迦様みたいに生とか死とか、人はなぜ生きるのかといったことについて考えを巡らせることが、どうしても増えてくる。

 探検の現場において肌で感じる生感覚は、その後に抽象的な考察が加えられ、言葉が与えられることで、私自身の世の中に対するものの見方のようなものをかたち作っていく。その結果、私のものの見方は、探検という普通の人がやらない行為を元手に形成されただけに、普通の人とは違う、ちょっと変わったものになっているように自分でも思えてくるようになった。

 例えばさきほどの雪崩の場合だと、私は雪崩で生き埋めになった時に、人間が死ぬ時に何を考えるのか少しわかった気がした。生き埋めになった時に考えていたのは、自分にとってもとても意外なことで、はっきり言ってどうでもいいことだった。私はこの体験を引き合いにして、人間が死ぬ時にはどのようなことを考えるのか、ひとつのモデルケースを提示することができるといえるだろう。自分のケースを他者にまで敷衍してしまっていいのかよく分からないが、しかし多くの人は、自分が死ぬ時にどんなことを考えるのか死ぬまで分からないわけだから、他者にとっても私の体験は面白いものになるに違いない。

 この雪崩の例はちょっと極端なケースといえるが、私には他にもいろいろとこれまでの探検の経験から考えるようになったことがある。もしそのような自分自身のオリジナルなものの見方を提示できるのならば、面白い本が書けるのかもしれないと思い、その企画を編集者に提案したわけだ(もちろん北極の疲れが癒えたという真の理由もあったのだが……)。

 この本は一応、エッセイ集ということになっている。ただエッセイというと日常のふとした場面や、きれぎれとした雑感を味わいのある筆致で描き出し、多くの人の共感を誘うといったような印象が私にはある。それに比べて私の文章は非日常をベースに書き起こした、自分でも独りよがりな部分がないでもないように思われるものばかりなので、どうも初めはそのカテゴライズがしっくりこなかった。しかし今回生まれて初めて「エッセー」という言葉の意味を広辞苑で引いてみると、
「随筆。自由な形式で書かれた思索性をもつ散文」とあったので、その意味では、あながちこの本をエッセイ集と呼ぶのもおかしくはないのかもしれないと今は思っている。

探検家、36歳の憂鬱
角幡唯介・著

定価:1313円(税込) 発売日:2012年07月21日

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