平成十五年三月に全日本漢詩連盟が創設されてから、石川忠久先生にお目にかかる機会がふえた。理事会で、講演会で、吟行会で……と会うことが多くなるにつれて、漢詩についての造詣の深さにただただ感嘆するばかりである。新著『漢詩と人生』を読めば、そのことがすぐ分かる。
この本の中で取り上げられた三十六首の漢詩を通して、三千年の長い詩の歴史、その進化発展の形、漢詩の規則・構造、詩人のエピソードなどが分かりやすく語られている。漢詩には典故という奥深い世界があって、素人には容易に踏み込めない。神話や伝説、数かぎりない歴史的事実、先人が残した多くの詩句が巧みに漢詩の中に取り込まれ、詩の味わいをいっそう豊かにする。
たとえば、第一章の「六、ふと我に返り、心洗われる日」で取り上げられた韋応物(いおうぶつ)の「休日 人を訪ねて遇(あ)わず」の詩。昔の官吏は九日働いて一日休み、という過酷な勤め。折角の休みに隠者に会うべく山中に尋ねてきたが、留守で会えない。「六朝の末ごろから詠い出されたこのテーマは、いないことによって却って隠者の縹渺(ひょうびょう)たる風趣が漂う、ことを狙いとする」と解説される。
そして、この詩の転句「怪しみ来たる 詩思の人骨を清くするを」(折角尋ねて来ても会えなかったが、不思議なことに、詩情が湧いて人の骨まで清らかにしてしまう)の「怪来」の使い方の先例に、王維の五言絶句「班婕妤(はんしょうよ)」がひかれる。起句「怪しみ来たる 粧閣閉ざし」は「漢の成帝の宮女・班婕妤が新入りの趙飛燕(ちょうひえん)に寵愛を奪われ、すねて部屋から出て来ないのを、不思議だなあ、おかしいなあ、といぶかしんでいるのである」と解説される。
さらに、韋応物の詩と似た趣向で「周りの景色を描きつつ、それによってそこに棲む人を窺(うかが)わせる典型的な詩一首」として、雍陶の七言絶句「韋処士の郊居」が示される。「庭に満つる詩景 紅葉飄(ひるが)えり……蕭条たる寒玉一渓の烟」を読むと、詩の世界が重層的に厚みを増し、さらに奥深い世界へ誘い込まれるのである。
漢詩の森に分け入り、何だか森林浴でもしているような気分になる。森の中のさまざまな樹々、草花、小動物、鳥の鳴き声、木洩れ日、枝をわたる風の音……など、人間の五感を心地よく開放してくれる漢詩の森に、名ガイドに連れられて入り、散策する楽しさである。
『漢詩と人生』を読みながら、私が連想したのは、E・ケストナーの『人生処方詩集』である。ケストナーは「年齢が悲しくなったら」「貧乏に逢ったら」「孤独に耐えきれなくなったら」「夢を見たら」「同時代の人間に腹が立ったら」……など三十六の危機的状況に陥った人が服用すべき薬として、自分の百二十篇の詩を分類し、この詩集は「抒情的家庭薬局」だ、と宣言する。
しかし、ケストナーの薬はなかなかの劇薬である。たとえば、「自信がぐらついたら」飲むべし、とされた「警告」という短い四行詩。 「理想を持つ者は/それに到達しないように 気をつけるがよい/さもないと いつか彼は/自分に似る代りに/他人に似るだろう」
こんな薬を飲むと、症状はいっそう進むのではないか、と思ってしまう。詩は面白い。しかし、劇薬である。西欧流対症療法にくらべれば、漢詩は漢方薬や気功にも似た全身療法といえそうだ。
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