文春写真館

平凡なもの、弱者、庶民への愛情があふれる宇江佐真理の世界

文・写真: 「文藝春秋」写真資料部

平凡なもの、弱者、庶民への愛情があふれる宇江佐真理の世界

「深川・木場町の材木問屋『信濃屋』の台所はいつも鰹節のような匂いがした」――冒頭のたった一行で、読者はもう作中に取り込まれている。

「幻の声」というこの短編は、オール讀物新人賞を満票で受賞し、以後「髪結い伊三次捕物余話」という人気シリーズになってゆく。高校生の時から小説を書き続けてきた彼女が四十代半ばになった頃のことだ。

 デビューが遅かったとはいえ、筆致には年季が入っていて、ことに細部への目配り、描写の見事さは読者を虜にする。

 昭和二十四年(一九二九年)、函館生まれ。短大を卒業し、会社勤めを経て主婦となり、二人の子供を育て上げながら書き続けてきた。

 シリーズ三作目『さらば深川』の解説で、山本一力が「函館にいながら、宇江佐流の江戸深川の町を構築している」と書いている通り、彼女の描く江戸と江戸の人々は、それまでの江戸時代小説と比べるとかなり異色である。

 山本氏は「同じ深川でも、作者によって町は異なる。その違いを味わうのが、読者の喜びだろう」と続けているが、宇江佐真理の描く登場人物は、あまりにも現代的で、それまでの時代小説ファンを驚かせたに違いない。

 だが堅実な主婦でもある作者の個性が作り上げた、いやおうもないリアリティと、細部描写の腕によって、彼女の小説世界は見事に花開いている。そしてその世界を裏打ちするのは、すべての人間に注がれる愛情だ。

「たとえ虫けらのような人間でも親がいて、また留蔵さんのように虫けらのままに可愛がる人もいるのです。わたくしのようなあばずれ女でも妻に迎えようとする男もいるのです。だからこの世の中は人が嘆くほど捨てたものではないとわたくしは思っております」とは、「星の降る夜」で不破の妻・いなみが言う言葉だが、最新刊の『竃河岸』でも、かつて悪事の中心にいた次郎衛を、不破の息子・龍之進は信用して小者としている。

 シリーズの登場人物は順当に齢を重ねてゆき、結婚し、子供が大きくなってゆく。「私の頭がぼけ、もう作品を生み出すことができなくなったと感じた時、私は伊三次のラストを書こうと決心している。多分、死ぬよ。どういう形かわからないけれど。だって人間は死ぬ運命にあるのだから」とエッセイに書いていた作者が、だが、がんになってしまった。

 平凡なもの、弱者、庶民。同じ人間として人々に感じる共感と愛情は「私の乳癌リポート」でも発揮され、同じ病の読者に対して「大丈夫、あなたはまだ生きている。すぐには死なない」とエールを送っている。

「オール讀物」平成二十七年(二〇一五年)十月号に不破家の嫁・きいの幼馴染の話を書いて、伊三次はまだまだ元気だったのに、その翌十一月、作者はあっさりと逝ってしまい、読者を嘆かせた。六十六歳だった。

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