プロレス界の巨人、ジャイアント馬場は昭和十三年(一九三八年)、新潟県三条市生まれ。本名、馬場正平。力道山、アントニオ猪木と並んで人気を誇り、得意技の十六文キックは一世を風靡した。
小中学校で野球に熱中し、身長が急速に伸び、三条実業高校入学時には、すでに百九十センチになっていた。野球部員として甲子園出場はかなわなかったが、読売ジャイアンツのスカウトに誘われ、高校二年で中退し、投手として入団した。昭和三十二年、中日戦で一軍初先発。杉下茂相手に七回一失点と好投するが、のちに脳腫瘍による急激な視力の低下に見舞われる。回復後、巨人を解雇され、大洋入団が決まるが宿舎の風呂場で転倒して大怪我を追い、結局プロ野球の選手生活を断念した。
昭和三十五年、力道山に日本プロレス入りを直訴し、認められる。同年九月、同時期に入門した猪木と同じ日にデビューした。翌年、力道山に戦いぶりを評価され、アメリカへの武者修行を命じられる。昭和三十八年に帰国、アメリカ時代のババ・ザ・ジャイアントの呼び名から、ジャイアント馬場のリングネームが定着した。
力道山との師弟タッグで人気を博し、同年再び渡米するが、十二月に力道山が急死したため、一時帰国する。翌年渡米し実績を残したあと、凱旋帰国し、豊登とタッグを組んで力道山亡きあとの日本プロレスを支えることとなった。
昭和四十二年からはアントニオ猪木とタッグを組み、圧倒的強さで日本プロレスの全盛期を築いた。しかし、内紛が起き、テレビ局の放映権の問題も絡んで、昭和四十七年、馬場は日本プロレスを去り、全日本プロレスを旗揚げする。昭和四十九年、権威あるNWAヘビー級王座のタイトルをアジア人として初めて獲得する。
昭和六十年、スタン・ハンセンに敗退したのを契機に、本格的な試合からは遠ざかるが、平成十年(一九九八年)までリングに上がり続け、生涯国内通算五千七百五十九試合を闘った。
「ファンが俺を必要としているといえば、いい過ぎかもしれないよ。でも、自分が頑張っている姿というものが、俺と同年代の人たちに“あの年になってもやれるのか”と、何か夢や希望を与えられればいいなあ、というふうに俺は思っています。そりゃ、自分が一番よくわかっていますよ、10年前、20年前のジャイアント馬場と比べれば、あんなこともできなくなった、こんなこともできなくなった、ということは……。自分で悲しくなりますよ。でも、頑張るという気持ちが大事なんだと思う」(「ナンバー」平成四年十月五日号)
写真はこのとき撮影。平成十一年、肝不全により死去。