『ポリティコン』は、桐野夏生の作品歴の中でも異色と言ってよい、突出した位置にある超大作であると同時に、きわめて桐野夏生らしい魅力的な複雑さ、歪(いびつ)さを抱え持った小説でもある。

 主な舞台となるのは、大正時代、東北の僻地にユートピアの理想に燃えた芸術家たちが創立した「唯腕(いわん)村」。しかし村は今や高齢化が進み、経済的にも行き詰まりつつあった。村の後継者である青年・高浪(たかなみ・のちに羅我<らが>) 東一(といち)は、共同体と自らの未来に不安と焦燥を隠せない。そこに北田という男に連れられて、素性の知れない2人の女が村にやってくる。スオンという外国人の女と、マヤという美少女だった。東一はマヤに熱烈に恋するが、相手にされない。やがて名実ともに村の長となった東一は、悪辣なビジネスを含む手練手管を駆使して唯腕村を奇跡的に再生させる。東一はマヤと愛人契約を結ぶのだが……物語はやがて意想外のクライマックスを迎える。この小説は2部構成になっており、第1部は高浪東一の視点から、第2部はマヤ=真矢の立場から描かれる。

 桐野夏生は、失敗したユートピアとしての村落共同体の(悲劇的な? それとも喜劇的な?)運命を、綿密な取材を踏まえつつも、そこから自由自在に離陸してみせるリアルで大胆不敵な想像力によって、鮮やかに描き出してゆく。言うまでもなく「唯腕村」には「日本」の戦後史そのものが重ね合わされている。それはこれに先立つ先品『東京島』で、やはり「東京」と「日本」が重ねられていたのと同じである。

 この作家は、たとえば「歴史」や「国家」と呼ばれるようなマクロな対象を、けっしてマクロなままで捉えようとはしない。常にミクロな視座、すなわち登場人物個人個人の生きざまと、彼ら彼女らのエモーションの交錯を通して大きな何ものかを掴み出そうとする。

 この作品においては、その独特な方法論が、行き着くところまで行っている。もちろん東一とマヤ以外にも、過去が謎に包まれた北田や、裏のヒロインともいうべきスオンをはじめ、魅力的な人物は何人も出てくる。だが結局のところ、この長い長い小説は、最終的に東一とマヤの、まったく似てはいない(東一は自分が「唯腕村」の王であることに過剰なアイデンティティを感じているが、マヤは自分が何者かさえわかっていない)が同時にそっくりでもある(2人とも魂に満たされることのない飢餓を抱えもっている)男女の、異様なるラブストーリーへと収斂してゆくことになる。それは卑小な男と高潔な女の巡り会いとすれ違いをめぐる、あえて凡庸と言ってしまうことも可能な物語であり、にもかかわらず、それと同時に、いわば神話的な輝きを帯びてもいる。そう、最後まで読めばわかることだが、この小説は、一種の「創世記」「建国神話」でもあるのだ。

 いつもながら、小さな人間の巨きな野望(とその失墜)をしかと見据える桐野夏生の筆致は、限りなくドライで、突き放した距離感を保ちながら、そのことゆえに独特のユーモアを孕(はら)み、なおかつ不思議な叙情を醸し出す。江戸川乱歩賞を受賞した『顔に降りかかる雨』(1993年)に始まる「村野ミロ」シリーズは、あの鮮烈極まりない『ダーク』(2002年)以後書かれていないが、この作家は今も、定義にもっとも相応しい意味でのハードボイルド作家なのである。本作の単行本刊行時に筆者が行なったインタビューで、桐野夏生はこう語っていた。

「私は白黒つけがたい、善悪がわからない、そんな薄気味悪い中間地点にいるような人が、好きなんですね。最近、善悪だけでなく、物事をわかりやすくしようという傾向が文学でも強いと思いますが、私はそれに乗りたくないんです。人はそんなに簡単に分けることができないし、差異は常にある」

 おしなべて人間どもは、ほんとうのところ最初から最後まで、善悪の中間地帯にある。正義や道徳や倫理などと呼ばれるものは、その上にかろうじて構築された脆い砦に過ぎない。欲望や邪心によって、それはたやすく崩されてしまうだろう。人間にあるのは、感情である。エモーション。桐野夏生は人間どものエモーションを、その高まりや叫びを、おそろしく的確な、だがけっしてわかりやすいわけではない言葉で掴まえる作家である。題名に選ばれた「ポリティコン」は、アリストテレスが「人間」について述べた「ゾーン・ポリティコン(=政治的・共同体的動物)」という言葉に由来する。だがこの動物には、本能のみならず、感情という厄介なものが宿っているのだ。『ポリティコン』はこの上なくエモーショナルな小説である。そしてそのエモーションは、もちろん「日本という国」に流れるエモーションでもある。