本の話

読者と作家を結ぶリボンのようなウェブメディア

キーワードで探す 閉じる
魂に飢餓を抱えた男女の「建国神話」

魂に飢餓を抱えた男女の「建国神話」

文:佐々木 敦 (評論家・早稲田大学教授)

『ポリティコン 上下』 (桐野夏生 著)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #エンタメ・ミステリ

 この作品においては、その独特な方法論が、行き着くところまで行っている。もちろん東一とマヤ以外にも、過去が謎に包まれた北田や、裏のヒロインともいうべきスオンをはじめ、魅力的な人物は何人も出てくる。だが結局のところ、この長い長い小説は、最終的に東一とマヤの、まったく似てはいない(東一は自分が「唯腕村」の王であることに過剰なアイデンティティを感じているが、マヤは自分が何者かさえわかっていない)が同時にそっくりでもある(2人とも魂に満たされることのない飢餓を抱えもっている)男女の、異様なるラブストーリーへと収斂してゆくことになる。それは卑小な男と高潔な女の巡り会いとすれ違いをめぐる、あえて凡庸と言ってしまうことも可能な物語であり、にもかかわらず、それと同時に、いわば神話的な輝きを帯びてもいる。そう、最後まで読めばわかることだが、この小説は、一種の「創世記」「建国神話」でもあるのだ。

 いつもながら、小さな人間の巨きな野望(とその失墜)をしかと見据える桐野夏生の筆致は、限りなくドライで、突き放した距離感を保ちながら、そのことゆえに独特のユーモアを孕(はら)み、なおかつ不思議な叙情を醸し出す。江戸川乱歩賞を受賞した『顔に降りかかる雨』(1993年)に始まる「村野ミロ」シリーズは、あの鮮烈極まりない『ダーク』(2002年)以後書かれていないが、この作家は今も、定義にもっとも相応しい意味でのハードボイルド作家なのである。本作の単行本刊行時に筆者が行なったインタビューで、桐野夏生はこう語っていた。

「私は白黒つけがたい、善悪がわからない、そんな薄気味悪い中間地点にいるような人が、好きなんですね。最近、善悪だけでなく、物事をわかりやすくしようという傾向が文学でも強いと思いますが、私はそれに乗りたくないんです。人はそんなに簡単に分けることができないし、差異は常にある」

 おしなべて人間どもは、ほんとうのところ最初から最後まで、善悪の中間地帯にある。正義や道徳や倫理などと呼ばれるものは、その上にかろうじて構築された脆い砦に過ぎない。欲望や邪心によって、それはたやすく崩されてしまうだろう。人間にあるのは、感情である。エモーション。桐野夏生は人間どものエモーションを、その高まりや叫びを、おそろしく的確な、だがけっしてわかりやすいわけではない言葉で掴まえる作家である。題名に選ばれた「ポリティコン」は、アリストテレスが「人間」について述べた「ゾーン・ポリティコン(=政治的・共同体的動物)」という言葉に由来する。だがこの動物には、本能のみならず、感情という厄介なものが宿っているのだ。『ポリティコン』はこの上なくエモーショナルな小説である。そしてそのエモーションは、もちろん「日本という国」に流れるエモーションでもある。

ポリティコン 上
桐野夏生・著

定価:680円+税 発売日:2014年02月07日

詳しい内容はこちら

ポリティコン 下
桐野夏生・著

定価:670円+税 発売日:2014年02月07日

詳しい内容はこちら

ページの先頭へ戻る