書評

自由になるために必要なこと

文: 茂木 健一郎 (脳科学者)

『この社会で戦う君に「知の世界地図」をあげよう 池上彰教授の東工大講義』 (池上彰 著)

 経済のグローバル化が進むにつれて、世界的な人材競争が激化している。それと同時に、日本の大学のあり方が問われている。大学時代に、どのような取り組みをすれば、長い人生を充実させることができるのか? 国際競争力が低下する日本で、どうすれば学生たちに力を与えることができるのか。

 大学教育のあり方は、大学に進む人だけの問題ではなく、そもそも、私たちが、これからどのような素養を身につけて混迷の世の中を生きていけば良いのかという、根本的な課題にかかわることではないか。

 そんな中、池上彰さんの東京工業大学での講義が本になったことは、とてもタイムリーだと思う。『この社会で戦う君に「知の世界地図」をあげよう』というタイトルには、池上さんの愛と、自負と、叡智が込められている。

 池上彰さんは、難しい問題を、根本にさかのぼって、わかりやすく解説する。そのアプローチが最初に多くの人に印象づけられたのは、NHKの『週刊こどもニュース』における、「お父さん」役を通してかもしれない。

 子どもたちが、社会のニュースについて「なぜ、どうして」と根本的な疑問を持つ。それに対して、父親が、「それはね、こういうことなんだよ」 と解説する。かつては、社会のどこでも見られた風景が、家族が変質し、現代社会が巨大で複雑なものになっていくにつれて、成り立たなくなった。

 どんなに勉強しているお父さんにも、子どもたちが関心を持つような時事ニュースを、その深くて広い背景を元に説明することが、難しくなってしまった。そのような時代の変調の中で、池上彰さんがお父さん役の『週刊こどもニュース』は、1つの「あるべき姿」を示していた。私たちにとっての「癒やし」ですらあったと思う。

 その後、池上さんはNHKを定年前に退職し、本の執筆を始めた。また、民放の番組でも現代のさまざまな問題を解説する仕事に取り組んだ。池上さんの「いい質問ですねえ」という言葉が流行語になるなど、世に「池上彰ブーム」が起こった。

 NHKの記者から、『週刊こどもニュース』のキャスター(お父さん)へ。そして、退職して「もの書き」となり、民放の番組に加えて、古巣のNHKでも活躍する。新しい活動の領域に移るとともに、仕事の幅を広げてきた池上さん。今回、東京工業大学の教授に就任し、学生たちに「知の世界地図」を示す決断をしたのは、池上さんらしい直観だったのだろう。

すべての人への熱いメッセージ

 本書の冒頭でも触れられているように、東日本大震災、とりわけ、福島第一原発事故は、現代を生きる上で「専門」だけでは足りないという事実を私たちに突きつけた。原子炉や核燃料に関する知識や技術だけでは届かない。社会に対してどのように情報を提示していくか、合意形成はどうあるべきか、緊急時にどう対処すべきかといった、 総合的なアプローチが必要となる。

 専門のことでさえ精一杯なのに、さまざまな分野に目を配るのは、大変だ。その通りである。しかし、だからこそやりがいがある。池上教授が強調するように、「教えられるのではなく、自分で学ぶ」姿勢さえ身につけば、あとは自分で「正しいこと」を見つけていくことができる。

 アメリカの大学で伝統的に強調されている「リベラル・アーツ」教育は、文字通り、「自由」になるための学びである。エネルギー問題や、環境問題、あるいは国際関係など、現代の社会における困難な問題を解決するには、知の「体力」とともに、知の「俯瞰図」を手に入れなければならない。

 日本と原爆のかかわり、日本国憲法、年金、テレビ、中国の「反日」運動。重要な問題について、その本質的なポイントを押さえること。枝葉末節に拘泥する前に、全体像を見渡すこと。そのためには、「教えられるのではなく、自分で学ぶ」こと。池上さんが東工大生たちに強調しているこのスタンスは、すべての人への熱いメッセージである。 池上彰さんのお話は、わかりやすい。だからと言って、油断してはいけない。教授としての池上さんは、学生たちの成績評価に厳しいという。わかりやすく解決するためには、どれほど厳しい勉強と思考を重ねなければならないか。優雅に泳ぐ白鳥の、水面下での努力を想像できるか。

「お父さん」が、子どもの素朴な質問に答える。そこには、他人へのやさしいまなざしと、学問の一つの原型がある。自由になるために必要なこと。厳しさと愛の中で、どれくらい自己の研鑽を積めるか。大学は本来、そのことを学ぶ場所だった。

「池上私塾」、ここに誕生す。集う者は、幸せである。

この社会で戦う君に「知の世界地図」をあげよう 

池上 彰・著

定価:1575円(税込) 発売日:2012年11月15日

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