──シーナワールドのSFに出てくる機械は、科学技術の粋を集めた洗練されたものというより、出来損ないのようなものが多いですね。
椎名 先端科学とローテクが一緒になった世界が好きなんです。小松左京さんの小説に、江戸時代の文化のまま、科学が二十世紀のようになってしまった設定のものがあります。自動車が発明されていなくて、ロボットが駕籠(かご)を担いで走っている。おかしいんだけど、SFならそういう世界もあるだろうと。現実の未来も、すべてがハイテクなものにボトムアップされていくのではなく、ローテクな部分もどこかで根強く残っていくだろうと思います。僕は仕事でニューヨークからインドのコルカタ(カルカッタ)に行くようなことがある。摩天楼が屹立(きつりつ)する大都市から、人が裸で地べたを這(は)いつくばっている世界に行くわけです。二十一世紀の、これが現実なんです。未来もきっと同じでしょう。僕が部屋から出ない書斎派の作家だったら、こういう世界観は出てこなかったかもしれません。
異なる規格があってもいいはず
──小説には最新の科学技術が描かれますが、エッセイではカーナビや携帯電話に対して懐疑的ですね。
椎名 いま企業が流行らせているテクノロジーは、どれもまだ過渡期だと思うんです。昔最先端だといっていたレーザーディスクが今はもうなくて、その後出たDVDももう次の方式に変わろうとしているでしょう。だから僕は、もっと先のものを崇(あが)めたい。それが何かはわからないですが。
──作品の世界でも、登場人物はバージョンの古い機械を使っていることが多いですね。
椎名 あえてそうしています。僕が行った実際の旅の中で面白かったのは、携帯電話です。日本の携帯は自動車電話から発展したから、最初はハンドバッグみたいな大きなものを肩から掛けていましたよね。十年ぐらい前に行ったモンゴルでは、人々が卓上事務電話みたいなものを持ち歩いていた。何かというと、ウランバートルでは普通の電話の親機と子機のシステムを巨大化したものを使っていたんです。街の中心に巨大な親機があり、持ち歩いている卓上電話みたいなのが子機だった。それを見たとき、ああ、いいなと思った。われわれが使っている携帯電話と違う進み方をしている。それはそれで発展してほしかったんですが、三年くらい前に行ったときには、残念ながらわれわれと同じ携帯電話になっていた。世界中どこでも同じではなくて、いくつか違う規格のシステムがあるといいですよね。蒸気で動く携帯とか。そういうところに面白さを見出すのが好きなんです。
──ところで、シーナワールドのSFたびたび出てくる「ネゴ銃」ってどんな武器なんですか。
椎名 ネゴ銃ねえ。僕にもじつはよくわかっていないんですよ。一度どこかできちんと説明しなきゃとは思っているんですが。ビームが出てくるわけでもないし、ローテクな武器ですが、けっこう頼りにしてます。
──『ひとつ目女』の世界が『アド・バード』と大きく違うのは、アジア的雰囲気が濃厚なことです。
椎名 この小説はインド、中国、チベットなどを旅した経験がもとになっています。アジアは貧富の差が激しいし、混沌としていますからね。インドだと車で一時間ぐらい走っただけで、まるで中世のような生活をしている。この世界観は、SFといいながら現実でもあるんです。
──小説の世界では、日本は中国に侵略され、文化がほとんど中国化されています。
椎名 この小説を書いてだいぶ経って、中国がウイグル、チベットなど周辺地域に対する侵略の勢いを強めていました。北京オリンピックの聖火リレーで世界中に印象づけられるずっと前のことです。当時、旅行していてそれをじわじわ感じて、嫌だな、という気持ちがありました。中国は経済から文化、思想まで、周辺を蹂躙(じゅうりん)して狡猾(こうかつ)に取り込んでいくんだろうな、と漠然と感じていた。中国の戦略は、チベットなどに対してそうですが、漢民族がどんどん入り込んで同一化してしまう。日本もこれから中国人が増えてくると、いつのまにか中国語が公用語の一つになったりするかもしれない。『ひとつ目女』の世界では円がなくなり、元が通貨になっていますが、経済で負けると実際そうなるかもしれません。
──チベット旅行の体験は小説のどういう部分に表れていますか。
椎名 僕はこれまで三回チベットを旅しています。チベットは僕の中で三色のイメージです。大地の茶色、天空の青、雪を被った山や氷河の白。二回目に行ったときに、僕は高山病にかかって、その経験が主人公が幻覚剤「エベナ」でトリップする場面のもとになっています。小説中のように荷車ではないですが、四駆の自動車の荷台に横になって山を見上げると、これがきれいなんですよ。高山病に加えて薬も飲んでいるので、そのうち山が人の顔に見えてくる。苦しみながらも、その幻覚がなかなかいいんです。そして幻覚が行き着くところまで行くと、仏様が現れて話しかけてくるんです。
愛だけでは地球は救えない!
──『ひとつ目女』は、連載中には「ラクダ」という仮題で呼ばれていました。ラクダがストーリーの鍵を握る動物として出てきます。
椎名 それもやっぱり体験です。あちこちの国で乗って旅したことでわかりましたが、ラクダという動物は怪物なんです。モンゴルでラクダの出産を見た強烈な体験と、『毒草を食べてみた』(植松 黎著・文春新書)という本を読んだことが、ストーリーのヒントの一つになっていますね。
──タイトルにもなっている「ひとつ目女」のキャラクターは、椎名さんとしては珍しく官能的ですね。不気味だけれど、奇妙な魅力がある。
椎名 完璧な身体を持つひとつ目の女性に僕自身が欲情するかというと、しないと思うけど、猟奇的な方向に走る今のセックスの状況を見ていると、そういうところに行っちゃう人もいるだろうな、という想定のもとに書いています。
──椎名さんの著作の中でSFは決して多くないですが、やはりほかのジャンルに較べて書くのが大変なのでしょうか。
椎名 短篇のSFならワン・アイデアで書くことができますが、長篇となると、生活の中でずっとその世界に寄り添って育てていかないといけないですからね。長篇SFを一作書くのは、一人子供ができるようなものです。書き終えたときはそいつが独り立ちしていったようで、寂しいけれどカタルシスがあります。
──独り立ちといえば、作品は大団円で終わるものが少なくて、主人公たちが最後にどこかへまた旅立っていくものが多いですね。
椎名 登場人物に、穏やかな家に安住してほしくない気持ちがあります。落ち着かず、さらに荒野に行ってほしい。いつまでもつらいところにいてほしいんです(笑)。
──『ひとつ目女』のほかに、「文學界」の連載が完結したばかりのSF長篇「チベットのラッパ犬」があります。今後はあらためてSFに力を入れられるのでしょうか。
椎名 僕は「日本ファンタジーノベル大賞」の選考委員を十年くらいやっています。これはファンタジーやSFが対象の賞ですが、最近の応募作を読んでいると、男と女の小さな絡みがメインで、そこにSFが入ってくるようなものが多い。男女でなくても、人間と機械の愛とか。僕に言わせれば、愛だけでは地球は救えない(笑)。現実はもっと大変だろう、と言いたいんです。しゃらくさい四畳半SFみたいな小説が多い現状に対抗して、六〇年代からSFを読み続けているお父つぁんが、もっと変てこな世界をひとつ書いてやろう、という気持ちが正直あります。
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