2008.11.20 インタビューほか

シーナワールド全開のSF

「本の話」編集部

『名著講義』 (藤原正彦 著)

シーナワールド全開のSF

──最新刊『ひとつ目女』は、久々のシーナワールド全開のSFです。椎名さんはSFの書き手としてだけでなく、熱心な読み手としても知られていますが、読者としてはどのような作品から入られたのでしょうか。

椎名  SFのすごさに出会って読書の喜びを感じたのは、一九六〇年代でした。フレドリック・ブラウンとロバート・シェクリイのいくつかの短篇、ブライアン・オールディスの長篇『地球の長い午後』との出会いが大きいですね。

──その頃のSFは、文学の中での位置が今とは異なっていたのではないでしょうか。

椎名  SFは異端の文学でしたね。当時『世界異端の文学』なんていう全集があったんですが、結局、完結しなかった。今のように空想科学小説というよりも、異端という位置づけのほうが強かったんじゃないでしょうか。

──そういうものを読む方は、うしろめたい気持ちがあったのですか。

椎名  いえ、むしろ皆の知らない斬新なものを読んでるんだぞ、という跳躍感みたいなものを持っていましたね。
  今あげた三人の作家に共通しているのは、その発想のすごさです。ストーリーよりも、こんなこととても思いつかないだろうということを書いている。たとえばブラウンのある短篇は、ドップラー効果を拡大解釈して、時間が一日ずれてしまう。自分の顔が前の日の顔と重なってしまって、ときどき間違えて骸骨(がいこつ)と一緒になってしまうとか。これは一体何なんだ、この人は何を考えているんだろうと。だから最初は小説の世界がわからない。読み出してしばらくたってからようやく中に入り込めるんです。
  今度福音館からSFの全集が出るんですが、その一巻目がブラウンで、その解説を依頼されて、書くのを楽しみにしています。それはオーソドックスなSF全集でなく、言ってみれば「発想の宝箱」みたいな企画で、スペースオペラ(宇宙活劇)なんかは入らないようです。

──海外と日本のSFではどちらを多くお読みになりますか。

椎名  最初に影響を受けたのが欧米の作家だったので、海外SFのほうが多いですね。彼らには頭の柔らかさがある。最近は日本の小説でも、SFと呼ばれないけどこれってモロにSFじゃないか、という斬新なものが出ていますが、その基本は一歩進んだ欧米の作家たちが作っています。
  最近、岩波書店の「図書」の連載の最終回に、「地球の歩き方」をもじって「地球の壊し方」という文章を書きました。SFが今までどんなふうに地球を破滅させてきたかをそこで分類してみた。するとやっぱり欧米の作家のほうがアイデアが豊富で、日本では唯一、小松左京さんの『復活の日』が入ってくるぐらいですね。地球破滅ものというオーソドックスなジャンルでも、やっぱり日本の作家の多くはエピゴーネン(模倣者)になるんです。

──SFも今や歴史のある文学のジャンルですが、その進化の過程をどのようにみられていますか。

椎名  六〇年代までは誰でもわかるSFだったんですが、六〇年代後半からウィリアム・ギブスンなどのニューウェーブが出てきて、僕とか目黒考二のような旧来のSFファンは落ちこぼれた時代がありました。

──サイバーパンクはあまりお好きでない?

椎名  何を書いているんだかよくわからなくて、話の面白さよりもリズムで読ませるような感じがありましたからね。同じギブスンでも、蒸気機関が世界を支配している、といった設定だと面白く読めるんですが。そうやってしばらく付いたり離れたりしていたんですが、八〇年代の最後にダン・シモンズの『ハイペリオン』が出たときにはびっくりしました。語り口はどちらかというと古典的ですが、すさまじいバクレツ的な発想の活火山で、この人の頭の中を見てみたいという前人未到のスケール感。長大なスパンの話が、燎原(りょうげん)の火のように、宇宙の星々のように発展し、収斂(しゅうれん)していく。SFの王道だと思います。

 

異界生物創出のたのしさ

──科学知識を駆使した、いわゆるハードSFはいかがですか。

椎名  僕は好きですよ。ある科学的原則があって、それを飛躍・発展させて書いていくっていうのは尊敬します。僕にはそういう科学的素地がないから。理工系の人が膨大な科学知識を駆使している作品は説得力がありますね。

──最近のおすすめのSFはありますか。

椎名  コーマック・マッカーシーの『ザ・ロード』は、SF的な終末世界を、SF的な極端なガジェット(小道具)を入れないでうまく書いていますね。何かが起きているんだけど、それを細かく説明しないで納得させてしまう。その筆力が作家としてうらやましい。

──SFの多様なジャンルの中で、椎名さんがとくにお好きな分野はありますか。

椎名  まず発想が図抜けているもの。かつ作品世界の地形や環境に適応した異世界の生物が出てくるものが好きです。最初にあげた『地球の長い午後』には、わけのわからない動物や植物がたくさん出てくる。それにかなり影響を受けてますね。

──椎名さんは実在の生物の図鑑などもお好きですね。SFの中ではそれがパワーアップされている?

椎名  地球上だと物理化学の法則があるけど、SFの中だとそれを無視して不可思議な生物が動き回れますからね。これはもうたまらないです。SFの醍醐味(だいごみ)です。
  それから、ワン・アイデアもののSFの再構築の面白さというのがあります。H・G・ウェルズの『透明人間』はワン・アイデアものですが、二十年前にH・F・セイントの『透明人間の告白』という本が出て、僕と目黒が「これは二十年に一度の傑作だ」と騒いだ。なぜ二十年なのか、根拠はないんですが。ワン・アイデアの古典も新しい視点によって復活させられるという、SFの新たな可能性に見えたんです。ウェルズの『透明人間』は身体が見えなくなることだけで成立していますが、『透明人間の告白』はいわば、透明人間の側からの「暮しの手帖」です。透明になると便利なようだけれど、じつは不便のほうがずっと多いという。「いやあ、透明人間って大変なんだな」と。そういう発想の柔軟性に感心しました。

──『ひとつ目女』は、十八年前『アド・バード』で確立された荒廃した世界観を引き継いでいます。こういう終末的雰囲気はどこから出てくるのでしょう。

椎名  ロジャー・ゼラズニイの終末SFものの中に、砂漠を体長二十キロの蛇が横切る描写があるんです。どうしてそんな蛇ができたかというと、ケミカルな戦争によって異形の生物ができてしまったという。そういうケースはSFでよく出てきます。僕はそういう破滅的な混沌から作り出された生物が好きなんですね。いかに異界生物を創出するかというのにエネルギーを傾けているところがある。現実社会でも技術を駆使して植物を人間の望むような形態に変えていますが、いずれ動物でもそういうことが出てくるだろうと思っていました。何らかの仕掛けをして異形の生物が出てくることを読者に説得できれば、あとは何でもあり、自由自在です。
  そういう終末世界観は好きなんですが、同じ終末SFでもドラキュラが出てくるような話は苦手です。最近また映画化された『アイ・アム・レジェンド』は、無人のニューヨークが舞台ですが、どこか娯楽終末ものという感じがしてだめだった。終末で娯楽っていうのも変だけど。それはドラキュラ、妖精、エンジェルといった存在が、日本人には受け入れがたいことが大きいと思います。

ひとつ目女
椎名 誠・著

定価:1400円(税込)

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