大人の本と呼んでいた、いわゆる「文庫」を初めて買ったのが小学校4年生のときである。親から読むのを禁止されるほど本の虫だった私は、すでに学級文庫を読みつくし、子供の本では物足りなくなっていたのだ。お小遣いで買った最初のその文庫は星新一のショートショート。SFなんて言葉も知らなければ、現実と理想の区別も付かないほど幼いくせに、彼の描く未来の姿それもちょっとビターな味わいの物語の虜になった。
中学に入るとさらに加速がつき、趣味の合う友人たちと本の交換をしながらこのジャンルの本を読みまくる。小松左京や眉村卓、筒井康隆は手当たり次第、翻訳小説にも手を伸ばし、レイ・ブラッドベリやフレドリック・ブラウンに舌を巻いた。
あのころ、21世紀の世界というテーマで作文や絵をよく書かされた。輝かしい未来。科学技術の勝利。少なくとも小さな子供が世の中のことを心配しなければならないことは1つもなかったと思う。アトムもソランもスーパージェッターも最後は絶対に勝った。ウルトラマンは人類のために働き、人間は良いほうに進化しているのだと疑いを持ったこともなかった。
篠田節子の新刊『はぐれ猿は熱帯雨林の夢を見るか』を読んで、心を過ぎったのは幼い頃に信じていたゆるぎない未来のことだ。ここに書かれていることは、あの頃のばら色の未来から見れば反面教師のような小説たちだ。しかしお先真っ暗な未来を描いているわけではない。
本作は理科系短編集である。レアメタルを身体に溜め込んでしまったウナギをめぐる争奪戦(深海のEEL)、自宅建築現場で発掘された大量の人骨と謎の寄生虫の関係(豚と人骨)、ロボットストーカーと恋(はぐれ猿は熱帯雨林の夢を見るか)、63年かかったトンネル工事の最終日(エデン)の4本が収められている。
デビュー作『絹の変容』を例に取るまでもなく、篠田節子の小説では理科的なものを題材にした作品が多い。その昔であれば「SF小説」と一括りにされてしまったかもしれないが、今日のフィクションが明日のノンフィクションになってしまう現代では、この手の小説が必ずしも「作り事」にならなくなっている。