学生運動の闘士も老人ホームに
──言葉にできない記憶がまず残って、時間が経った後でその意味を考えるということは、作中に描かれたさまざまな「死」とも関わってきますね。
荻原 そうですね。例えば晴也は幼稚園児にしてすでに父親を亡くしているけれど、それがどういうことなのかはよくわかっていない。そもそも人が死ぬということがよくわからない。けれども時折「父ちゃん」のことは思い出すことがある。このことは意識的に繰り返し書きました。
──妻を亡くした後で「ひまわり苑」に入所した誠次も、さまざまに妻のことを思い出しますね。そして幼稚園児の伊梨亜も、おそらくは初めて人の死に接することになります。その驚き方が、とても印象的でした。
荻原 死に対して達観はできないけれど、老人にとって現実的な死は確実に近づいてくる。ならば身体が動く限りもがき続けるしかない。そして未来がどうなるかなんて誰にもわからないけれど、思ったことはガキどもに何でも言っておく。それは「後から意味がわかるような贈り物を残す」ことで、結果的に死をおろそかにしないことになるんじゃないでしょうか。伊梨亜が触れた死も、そのような贈り物だったと思います。
──老人と幼稚園児たちが交流を少しずつ深めていく一方で、「ひまわり苑」と「ひまわり幼稚園」では不正や不公正が蔓延します。片岡さんはそれに抗議してある日決起し、「苑」と「園」のバリケード封鎖を敢行します。
荻原 老人と幼稚園児が交流してゆく後に、「施設の占拠」という事件を起こそうと最初から考えていました。経歴が不詳だった片岡さんを元学生運動の指導者としたのは、「占拠」に詳しいと思ったからです。もっといえば学生運動をしていた人間も老人ホームに入る年になったということを書きたかった。老人ホームには戦争に行ったことのある人もいれば、学生運動をしていた人もいる。そのギャップみたいなものを描きたいと。
──片岡さんはバリケード封鎖のさなか、不正に対する抗議の演説をします。そして次第にそれが過去に深い根を持つ、単純な抗議ではないことが明らかになっていきます。なりゆきでバリケード内に残された晴也と伊梨亜には将来の恋愛の萌芽が示されて、騒動の中でそれぞれに流れる時間がとても重層的なものになっていますね。この箇所に限らず、この作品において、時間はとても繊細にコントロールされていると思います。
荻原 この物語を「占拠」から十数年後の101章から始めることは元から決めていました。幼稚園児だった晴也や伊梨亜が青年になる時期に向って物語が進むことは、最初に示しておきたかった。お年寄りと子供の目線だけではどうしてもドタバタしてしまう(笑)。僕は小説を書き始めたあとで、結末が当初考えていたものと違うものになることがありますが、この『ひまわり事件』に関しては着地点がブレることはなかったですね。生き残ってラストシーンに登場する老人も、最初から決めていた人物です。
──今後も老人や幼稚園児が登場する作品を書く可能性はありますか?
荻原 主人公という意味では、しばらく老人や幼稚園児はいいかなと思っています(笑)。でも主人公がどんな世代でも、男性であっても女性であっても、常に描けるような状態でいたいですね。自分と離れた世代であってもリアリティのある人物を描くこと、それは作家として永遠の課題かもしれません。
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