書評

違和感の向こうに見える同じ“顔”

文: 真山 仁 (小説家)

『兄弟 上 文革篇』『兄弟 下 開放経済篇』 (余華 著・泉京鹿 訳)

 見た目はそっくりなのに、こんなに違う――。小説執筆のための中国取材を始めた当初、そんな違和感ばかりが募(つの)った。

 ヨーロッパやアメリカを訪れた時には、そんな感覚に囚(とら)われたことがない。日本と異なる各国の文化や伝統の素晴らしさに目を見張り、その異質性に「来て良かった」と感じ入る。そして訪れた先々で知りあった人たちとグラスを合わせれば、すぐに百年の友となる。なのに、中国だけは、通うほどに、微妙な違和感ばかりが募る。

 なぜ、我々の価値観はすれ違うのだろう。だからといって中国で知りあった人たちと険悪になったりはしない。出会った人の多くとは親しく酒を酌(く)み交わし、帰国してからもメールのやりとりをする人もいる。にもかかわらず、自分と彼らとの間に何か壁を感じるのだ。

 何度目かの中国渡航で、その謎は突然氷解した。きっかけが何かは覚えていない。ただ、私が得た解はとても単純明快だった。

 中国人と日本人は、容貌は似ているが、けっして分かり合えない――。異論は承知の上だ。だが、偏見ではない。私たち日本人と中国人は価値観が違う。正反対と言ってもいい。

 中国ではカネを上手に儲けた者は尊敬されると言われる。騙(だま)されるのは間抜けで、人を騙してでも金持ちになったら尊敬されるのだという。一方、日本ではカネではなく仁義を貫いた者を尊(たっと)ぶ。最近では形骸化(けいがいか)しているが、それでも日本人のDNAに刻まれているのは、騙されても騙す人になるなという道理だ。

 そして日中の同一性について探ることを止めた瞬間、私は中国人が理解できるようになったのだ。彼らがどういう思考をし、何を欲しているのかが理解できた。その上、私は中国人が好きになり始めた。

 最初から違うと思えば小さな共通点がよく見え、同時にそこに接点が見つかる。やがてそれが双方を知る突破口になり、互いに相手は異文化の人間であるという前提から、理解が生まれてくる。

 面子(メンツ)を例に挙げてみよう。中国は面子の国だ。彼らの面子を立ててやれば話は通しやすいというのが通説だ。だが、日本と中国の両国を比べると、実は面子にこだわるのは日本人の方なのだ。中国人は、面子を捨てるだけの利があれば、あっさりと捨ててくる。ただ、彼らは交渉を思い通りに進めるために、「僕らは面子が大事だから、恥をかかせないで」というパフォーマンスをしているにすぎない。面子にこだわって大きなチャンスを逸(いっ)する日本人より強(したた)かなのだ。

兄弟 上 文革篇
余 華・著 , 泉 京鹿・訳

定価:2000円(税込)

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兄弟 下 開放経済篇
余 華・著 , 泉 京鹿・訳

定価:2000円(税込)

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