恥も外聞もなくいえば、二匹目のドジョウを狙ったのが、今回の連載である。二年前に、私は岡山の戦国大名で梟雄と呼ばれた宇喜多直家を主人公にした『宇喜多の捨て嫁』でデビューして、有り難いことに直木賞候補になった。その『宇喜多の捨て嫁』の文庫化に合わせた、直家の子の宇喜多秀家を主人公とした『宇喜多の楽土』の連載である。
高校生直木賞、舟橋聖一文学賞などを受賞した前作に続いて、今回の作品では一体どんなドジョウが釣れるかと、下心とともに釣り針ならぬ筆を走らせることになった。
だが、この宇喜多秀家という男、こちらの下心を吹き飛ばすかのように面白い。いや、奥が深いと言うべきか。確かに、父直家のような悪魔的な謀略の才はない。信長や秀吉のような、爽快な出世劇でもない。武田家のような滅びの美学もない。
関ヶ原に出陣し、戦い、負ける。
だが、敗戦直後、秀家のとった行動に私は心打たれた。
彼は、ある場所を目指すのだ。
その行動は武士としては失格のはずだが、なぜかそんな秀家を助ける人が大勢出てくる。見つかれば、徳川家によって処罰されるにもかかわらずである。
なぜ、人々は宇喜多秀家を助けようとしたのか。
それは、前作『宇喜多の捨て嫁』で書ききれなかったテーマをも含んでいるような気がした。
二匹目のドジョウを狙って下ろした釣り針だが、残念ながらドジョウは釣り上げられそうにない。腕に伝わる手応えは、ドジョウよりもはるかに大きいからだ。
あとは全力で釣り上げる、もとい、書き上げるだけだ。
「別冊文藝春秋 電子版9号」より連載開始