群馬県の事件といえば、大久保清事件(一九七一年)と連合赤軍事件(七二年)があった。大久保は前橋や高崎で八人の女性を誘い出し、強姦し殺害したあと、畑や造成地などに埋めてまわった。連赤事件は決着地こそ長野県軽井沢町のあさま山荘だったが、その直後、仲間内のリンチ殺人がくり返されていたことが判明し、群馬県内の山中などから十四人の死体が次々と掘り出された。二年つづきの大事件は、地元新聞社にとっては地の利を活かし、朝毎読など大手中央紙に真っ向勝負を挑む数少ない機会だった。群馬県の地元新聞といっても、ここでただちに上毛新聞を思い浮かべてはいけない。
横山秀夫の『クライマーズ・ハイ』はフィクションである。たしかに横山が上毛新聞の記者だった時期はあるにせよ、小説に出てくるのは「北関東新聞」。そして、記者たちがのめり込んでいくのは、このふたつの事件から十数年後、またしても群馬県が舞台となった日航ジャンボ機墜落事故である。
一九八五年八月十二日夕刻、速報が飛び込んでくる――乗客乗員五百二十四人を乗せた羽田発大阪行きの日航123便が、中部山岳地帯上空で消息を絶った。
編集局は騒然となった。主人公のベテラン記者・悠木は事故取材と出稿のすべてを取り仕切る全権デスクに任命された。墜落現場もわからないままに若い記者が飛びだしていく。ファックスは通信社からの配信をひっきりなしに吐きだし、夜明けになると、テレビが御巣鷹(おすたか)山の稜線に散った機体を映しだした。
小説はそれからの七日間、事故原因が特定されるまでの社内の動きをリアルに描いていく。といっても、この世界最大規模の旅客機事故をわが社はどう取材し、報道したか、という同時進行ルポや自慢話ではない。どう報道できなかったか、なぜ世界的スクープを逃したのかという苦い物語だといえば、概略はわかるだろうか。
北関東新聞の幹部らは、飲めば、若いころに取材した大久保事件や連赤事件の手柄話ばかりする。そんなベテランらには、この事故は面白くない。若い記者たちが山中の現場に飛び込んでいくのもしゃくにさわる。空前の巨大事故となれば、自分たちの自負や自慢など吹き飛んでしまうからだ。若い記者は若い記者で、手足や胴体がちぎれ飛び、内臓が散乱する墜落現場に打ちのめされる。
おまけに当時の群馬県は中曽根首相と福田元首相が反目し合い、北関東新聞の経営陣も両派にわかれ、たがいに腹のさぐり合いやら醜聞探しに躍起となっている。
悠木も弱みを抱えている。かつての大事件取材を知っている年齢だが、たいした成果を上げられなかったことはわかっている。墜落現場を見ておきたいとはやる気持ちを抑えながら、全権デスクにはりついていなければならない。家に帰れば、息子は寄りつかず、子育てに失敗したという思いも強い。
書き込まれていくディテールは、どれも生々しく、いかにもありそうな話である。巨大メディアなら暗闘となるところだが、こぢんまりした地方紙では反目や争いはたちどころに目の前の小競り合いになる。
現実の話にもどれば、この時期、私は、凄惨で殺気立った現地を歩きまわっていた。どこに行っても遺族、日航社員、警察や自衛隊、事故調査関係者、それに何百人もの取材陣でごった返す現場にいると、こんなところに一人でいても何もできない、という無力感に襲われた。それでも何十日も通いつづけ、そのうちに離断遺体の身元確認に当たった歯科医や法医学関係者の話を聞き、事故を生き延びたスチュワーデスの証言を聞き取ることになったのだが(新潮文庫『墜落の夏――日航123便事故全記録』)、いまふり返ってみても、ものを書きはじめたばかりの私になぜ彼や彼女が長い時間語ってくれたのか、よくわからない。
しかし、もし当時の新聞やテレビの内情が、横山の小説のようなものであったとしたら、私は幸運だったということになる。たとえ何百人の取材陣がいたとしても、そのそれぞれが思う存分に取材できない事情をかかえ、互いに足の引っ張り合いをしてくれていたからだ。おそらく、事実はそうだったのだろう。事故直後には記者のだれもが聞きたがった生存者の証言や事故原因の調査内容、ばらばらになった遺体の身元確認作業の詳細などを取材する動きは、二カ月もしないうちに消え去っていた。
『クライマーズ・ハイ』を、私は小説として楽しんだ。と同時に、物書きとしての私自身の僥倖(ぎょうこう)がどこにあったのかを再発見する書としても読むことができた。
ただし、と付け加えておかなければならない。五百二十人の死と遺族たちの痛切な悲しみは、楽しみや僥倖などという気楽な言葉を慎ませずにはおかない。作品のクライマックス、北関東新聞が世界的スクープを逃すことになるエピソードに、渦中の新聞記者だった作者の配慮と鎮魂の思いが込められている。