今年創刊六十年を迎えた「週刊新潮」の表紙を、長年にわたって描いた谷内六郎は、大正十年(一九二一年)、東京生まれ。子供の頃は、ひどい喘息に苦しむ蒲柳の質だった。十代のころから、新聞や雑誌に漫画を投稿する。兄の一郎が社会主義リアリズムに基づいた進歩的な画家だった影響を受け、戦後、「民報」に「真実一郎君」や風刺の利いた政治漫画を発表するなど、精力的に仕事をこなした。しかし、ノイローゼになって一時入退院を繰り返す。
昭和二十九年、谷内はその時期に描いた絵を知人の編集者、伊藤逸平にみせる。
「そのときの印象は、まさに『すばらしい!』の一言につきた。表現の形式としては、彼がかつて最も影響をうけたルドンのサンボリズム的手法がその中核をなしているように思われた。十九世紀末のサンボリズムは、自然主義に対する一つの反抗であったが、彼の手法は『思想を感覚的な形で包む』などというものものしいものではなく、もっとナイーヴな象徴主義で直截に組立てられていた」(「文藝春秋」昭和五十六年三月号「谷内六郎の画」伊藤逸平)
伊藤は文藝春秋に絵を持ち込み、翌年「漫画読本」に破格のカラー八ページが掲載された。これにより谷内は第一回文藝春秋漫画賞を受賞する。このとき選考委員の吉川英治が絶賛したとされる。写真はこのころに撮影。
受賞によって、一躍彼は有名となり、翌年創刊される「週刊新潮」の表紙を描くことが決まった。昭和三十一年二月十九日創刊号表紙は、転地療養でなじみのある、千葉県御宿のイメージで、「上總の町は貨車の列 火の見の高さに海がある」の一文が添えられていた。
「ぼくの表紙絵は一つのポイントとかアイデアをもっています、普通絵画は造形性だけによってあらゆるもの、思考とか感性とかを表現しますが、ぼくのには漫画で言えばギャグとかウィットみたいに何か一つのニュアンスによる焦点を出します、それが重要なぼくの絵の方法でもありますが、このアイデアをつかむ苦しみはあります」(「谷内六郎 昭和の想い出」より)
二十五年間、谷内は亡くなるまで「週刊新潮」の表紙を描き、郷愁に満ちた童画は「週刊新潮」の顔としてあり続けた。昭和五十六年一月、急性心不全のため亡くなる。
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