有閑マダムが若い愛人に厭きられて、嫌味を言われている。昭和三十四年(一九五九年)の映画『氾濫』の中でのことだ。
眼尻のしわ、頬のたるみ、荒れた手の甲など老醜を指摘され、無言のまま表情だけで「自信と、虚栄と、誇りのすべてを同時に失ったことを知る、呆然自失として無防備な姿をさらけ出した『をんな』そのもの」を演じていると、矢野誠一が、沢村の自叙伝『貝のうた』の解説で絶賛している。
「さらに凄いのは、そうした自身の表情を写しとっているカメラと、まったく同じ眼でもって、おのれを凝視する女優沢村貞子が、画面にしっかりと存在していたことだった」
明治四十一年(一九〇八年)、浅草生まれ。父は狂言作者、兄弟はみな役者という「芝居もの」の家で、女は役者になれないからと余計者にされて育つ。
教師に憧れて、家庭教師をして貯めたお金で日本女子大学に入るが、同僚同士の争いを見て幻滅し、卒業せずに新劇の俳優になる。昭和六年に日本プロレタリア演劇同盟に入団し、逮捕、起訴、独房生活などを経て、昭和八年十二月に懲役三年、執行猶予五年で釈放された。
その後は映画俳優として再起し、以後脇役を中心に三百五十本以上もの映画に出演。テレビやラジオでも活躍し、名エッセイストとして著作も多い。
脇役というと、主役を引き立て、作品全体に説得力と厚みを出す、オーケストラ奏者のようなイメージだが、沢村の脇役ぶりは違う。主役を食うのではないが、常に沢村という強烈な個性があり、主流の物語に別のドラマを添えて、観客に忘れられない印象を残す「第二のソリスト」だ。
「西鶴一代女」で、ヒロインの髪に嫉妬する女房も、「となりの芝生」で嫁といざこざを起こす姑も、強気な女の性を満遍なく見せつけてくれた。
だがそこには明治生まれの、女は家事をせねばならず、学問をしてはならずという束縛を振り切って、自分の道を生きてきた者の、おそろしいほどの観察眼と客観性と孤独がにじんでいる。
「職業として女優を選んだだけの私は、最初から夢も希望ももっていなかった」と自分でも書いている通り「可愛げのない女」だが、三度目の結婚で自分を許容してくれる夫との幸福を得て、後年は幅を広げた。晩年につづられた文章には、生きることの楽しみ、老後の問題、女性と職業、情報過多と不安など、現在もそのまま共感できるものが多い。
写真は昭和五十三年、ニッポン放送のスタジオでの録音シーン。六十九歳だが若々しく、自分の声を確認しながら話している様子にゆとりさえ見える。
平成元年(一九八九年)に女優を引退。終活もおこたりなく、明治女のあっぱれなたしなみを見せて、平成八年に八十七歳で世を去った。