3章 通り過ぎていった男たちのまぼろし
他人の霊に取り憑かれるなんて初めての経験で、どうあしらったらいいのか見当もつかなかった。姿形は見えないし、ニオイも音もしない。生きていれば、身の上話に耳を傾けることもできるが、死んでしまった人とは関わりの持ちようもない。夜毎、夢枕に立つと谷本ヘレンにいわれたが、いっこうに現れる気配はなかった。
それから二週間ほどして、会社の同じ部署に退職者が出たせいで、七海の仕事はにわかに忙しくなり、白草千春のことなどすっかり忘れてしまった。連日、残業が続き、遊ぶ暇がなくなり、睡眠時間も減り、ストレスのせいで顔に吹き出物まで出てきた。気分を一新しようと、週末に桃子と浴びるほど飲んで、帰宅した日のことだ。どうやって、家に帰ったかの記憶は飛んでいた。夜と朝のあいだの曖昧な時間、七海はまだ夢と現のあいだにあって、朦朧としていた。明け方の川面を覆う靄のようなものが、まどろみの底から湧き出ていた。その靄を吸い込むと、なぜか悲しみに心が塞がれる。目覚めれば、この悲しみも晴れるかと思ったが、瞼も体も重く、再び深い眠りに戻りたい気持ちが勝った。やがて、漠とした悲しみは色も形もある想いに変わろうとしていた。意識の奥底に沈んでいた記憶が浮かび上がり、おぼろげに像を結びだした。
薄暗いお堂のような場所にいた。目の前には無数の観音像が並んでいた。ここは三十三間堂か? 千躯はあろうかという像が何もいわずにこちらを見ている。これだけの数があれば、どこかに見知った顔の一つや二つはあるだろう。
そう思って、お堂の一番端に立つ像を眺めてみると、薄目を開けて微笑んでいるその様子が若かった頃の養父にそっくりだった。優しいけれど、何を考えているのかわからない人だった。
その斜め後ろに立っている観音像ははにかんだような、まぶしいような目でこちらを見ていた。中学時代の彼氏、ドラマーのジョーがいた。養父と健気に戦い、敗れ去った夢見るドラマー。鼻筋が通った美男顔の観音様は自分を妹のように可愛がり、初めて男と交わる心地よさを教えてくれた刺青のヤノケンに生き写しだった。 こっちを見れば、頬がふくよかで、肩の肉付きのいい観音様がいて、自分のわがままをいつも聞いてくれた檀おじさまのことが思い出されたし、あっちに目をやれば、斜視気味の痩せた観音様がおり、自分に哲学の心得を授けてくれた般若先生に瓜二つだった。
ご本尊脇の後ろの列に並んだ、額広く、口を真一文字に結んだその顔は憎い織田に生き写しで、体を斜めに傾け、今まさにこちらに歩み出そうとしている観音様はといえば、歌舞伎役者の金右衛門さんを思い出させた。やつれ顔の居眠り観音はシティボーイの小平くんに、眼と眉の間が離れ、腰を曲げたポーズで飄々と立つ観音様は変態の石原さんに似ていた。
ほかにも、名前を忘れてしまったが、旅先の宿で夜をともにした男たち、自分がもてなした風変わりな客たちが、当時の眼差しそのままにこちらを見つめていた。
ここにいるのは全て自分と付き合いのあった男たちばかりだった。ああ、みんな仏になってしまったんだな、と思うと、まだ生きながらえている自分が恥ずかしく、いても立ってもいられなくなった。お堂から裸足のまま飛び降り、玉砂利を踏みながら、走った。
自分の姿を庭の池に映してみた。緑色の水鏡は一人の女の老け顔を映し出していた。いったい、何年の歳月が経ったのか? これ以上の生き恥をさらすことはできない。今すぐにでも消えてしまいたい。
そう思ったところで、七海はいつもの七海に戻ったが、三十三間堂で男たちの想い出に涙していたのは誰だったのだろう? 今しがた見ていた男たちの幻は砂浜に描いた絵のように、波に洗われ、消えかかっていた。どう考えても、自分の記憶にない男たちだったが、観音像を見ながら、胸に抱いた悲しみはこの体で感じていた。夢を通じて他人の記憶、それも死んだ白草千春と記憶を共有するなどということがあるのだろうか?
それ以来、招いたつもりはないのに、白草千春は三日にあげず、七海の夢枕に現れては、自分の過去を振り返るのだ。彼女の体を通り過ぎて行った男たちの思い出は古傷のように疼くのだろうが、七海には全く無関係な男たちだ。眠っているあいだに、見知らぬ男たちとの関係を強要されるみたいで、寝起きの気分は最悪だった。そんな赤の他人と交わるのも、他人の心の傷を背負い込まされるのも御免被りたかった。
今夜も白草千春が現れるのかと思うと、眠るのが憂鬱になった。もちろん、眠らなければ、彼女が現れる余地はないが、いつまでも起きていられるはずもない。寝不足で朦朧としてくると、意識の防御が緩み、千春の侵入を許すことになる。夢さえも見ないほど深い眠りに落ちればいいと、深酒をしたり、睡眠薬を飲んだりして、彼女が訪ねてくるのを拒もうともした。それでも、寝入り端や朝方、眠りが浅くなった瞬間に、彼女はするりと夢の中に紛れ込んでくるのである。 お陰ですっかり生活のリズムを狂わされてしまい、再び谷本ヘレンに相談に行かざるを得なくなった。千春の霊を成仏させられそうな人は彼女以外に思い当たらなかったから。
――ああ、やっぱり現れましたか。よかったです。
――何もいいことはありません。どうにかしてください。
――死者たちとの付き合いなしには、私たちの暮らしは成り立ちません。また、死者たちがこの世に現れる時は、生きている人の協力が必要です。
――すみません。いってることがよくわかりません。
――あなたは千春さんに選ばれたんですよ。落語とか歌舞伎の世界には襲名というのがあるでしょう。亡くなった師匠や名人の名前を弟子が名乗る。それと同じだと思えばいいですよ。
――二代目千春になれってことですか?
――名前を継ぐ時はその魂や芸を身につけなければなりません。
――どんな魂ですか? 何の芸ですか?
谷本ヘレンは七海の困惑顔を真正面から見据えて、「色好みの」と呟いた。
――私、そんなに男に飢えているように見えますか?
ヘレンが黙って指差す方向には鏡があった。自分の顔を見てみろという意味? 失礼千万な占い師だ。
――私に何をさせたいんでしょう?
――あなたは筆が立つでしょう。書くことが好きでしょう。
そう訊き返されて、七海はコトバに詰まった。学生の頃、漠然と小説を書いて暮らしてゆきたいと思っていたが、そのことを他人に打ち明けたことはなかった。今でもブログやメールに自分の心に芽生えた詩を書き綴る癖は抜けない。七海の中の文学少女はまだ死んでいなかった。
――書いて、供養してあげたら。
――書くって何を?
――白草千春の生涯。『好色一代女トゥデイ』とかいうタイトルで。
――身辺雑記しか書いたことないんですよ。他人の昔話なんて興味ないし。
――自分の未来を知りたいでしょ。だったら、他人の過去を研究しなさい。決心がついたら、またいらっしゃい。
谷本ヘレンが死者の肩を持つので、千春の霊はこれ幸いとばかりに七海の夢に居座るようになった。彼女が現れると、反射的に目覚める癖がつき、そのせいで睡眠障害になってしまった。仕事にも支障が出始め、周囲にも迷惑をかけることが増えた。心療内科にも行ったが、死者の霊に取り憑かれているなどとはいえなかった。結局、仕事のストレスが原因ということにされ、薬をたくさん処方された。指示通りに服薬していたら、本当に病気になってしまうところだった。
4章 スーツケースに収められた人生
眠れないまま迎えたある朝、七海は乾き目をしょぼつかせながら、覚悟を決めた。 相手は死者なのだから、ストーカー被害を訴えることもできない。逃げても無駄だ。七海が書くことで、千春が成仏し、七海の病が癒えるのなら、そうするよりほかにない。 さる文豪曰く。
書くのではない。書かされるのだ。
文豪は「筆を執れ」という死者の命令に従っているだけなのだそうだ。
七海はその日のうちに会社に辞表を出した。上司は「自分探しか」と訊ねた。「いいえ、他人探しです」と七海は答えた。百人に五人が失業中というご時世に会社を辞めるのは、台風のさなかにピクニックに行くようなものだが、文豪はこうもいっている。
楽をした分だけ堕落する。
「まあ、頑張んなさい」とやる気を削ぐ上司の声に送り出され、七海は会社を去った。失業保険は三カ月分しかなく、その後は時給千円未満のアルバイトと預金を切り崩して暮らし、いよいよ飢え死にの危機が迫ったら、アパートを引き払い、実家に帰る。そんな生活設計をしたうえで、自分の決心を伝えに、三たび谷本ヘレンを訪ねた。
彼女は助手に「納戸から例のもの、持ってきて」と伝えた。助手は年季の入った小ぶりのスーツケースを運んできて、七海の目の前に置いた。
――この中にあなたの未来が詰まっています。
例によって、谷本ヘレンは意味深なコトバを囁き、七海を煙に巻こうとする。七海もベタに「何ですか、これ?」と訊ねる。
――『好色一代女トゥデイ』の資料よ。日記とか手紙とか思い出の品とか千春さんの過去が一式入っている。
――どうして、それが先生のところにあるんですか?
――千春さんには私が家出してきた時に世話になったのよ。
谷本ヘレンの話をまとめると、こうだ。
身寄りのなかった白草千春には葬式を出してくれる遺族もいなかった。無縁仏として葬るのは気の毒なので、ヘレンが骨を焼くおカネを払った。その見返りというわけではないけれども、千春の遺品はヘレンが引き取ることになった。そこに、千春の霊に見込まれた七海が現れた。
ヘレンが熱心に千春と関わるよう誘導したのは、そういう背景があったのだ。何だか、はめられた気がしないでもなかった。七海が会社を辞めたと聞いて、ヘレンも多少は負い目を感じたようで、千春の生涯を原稿にまとめたら、一枚千円の原稿料を払うから、と前金で五万円くれた。
そして、スーツケースを自宅に持ち帰り、いざ開こうとしたものの鍵がかかっていた。谷本ヘレンに電話し、鍵をもらうのを忘れたことを告げると、「鍵はなくしたので、こじ開けて」といわれた。他人の過去をこじ開けるのは気が引けたが、見えない千春の霊に許しを請い、ドライバーを差し込み、シリンダーロックを壊した。思ったより手間がかかり、一時間の格闘の末にようやく左右のロックが解除された。かかった手間の分だけ緊張が高まり、禁断の書物の扉を開く気分でケースを開いた。
けれども、光り物もなければ、目に綾なす物もない。何もかもが色褪せていた。
いずれは返却するものだから、中身のリストを作っておこうと、ケースに収められた物品の種類と数を確かめた。

千春の父で日本画家。娘を溺愛するが、ある日突然失踪する。
「お前の将来が心配で、夜も眠れない。決して、自分を安売りしちゃいけないよ」
絵・ヤマザキマリ
布装の日記帳が十三冊。革装の手帳が八冊。大学ノートが八冊。差出人別に束ねられた封書が三十束。記念写真のアルバムが六冊。コンサートのプログラムや美術展の招待券の半券や遊覧船の切符、温泉宿のパンフレットや往年のアイドルのブロマイドなどが貼られたスクラップ帳が三冊。空の香水の瓶三つ。アクセサリーが入った巾着袋が二つ。何が入っているのかわからない小箱が二十個。
それらを狭いアパートの床に並べると、七海はしばらく放心していた。いつもノートや日記帳を抱いて、寝ていたに違いない。彼女の手垢や涙や髪の毛も付いているだろう。
そこはかとなく、他人の寝床のようなニオイが漂ってきた。
女の一生なんてこんな小ぶりなスーツケースに収まる程度のものか、と思った。それらは千春なりのささやかな幸せの証なのかもしれないが、彼女の人生を羨やむ人なんてたぶんいない。あまりまじまじとその遺品を見つめていると、こっちまで惨めな気分になってくる。
ただ忘れられてゆくだけの千春を七海が記憶にとどめてやりさえすれば、きっと千春も成仏してくれ、七海にも安眠が戻ってくる。そう信じて、一番古い日記帳から手に取った。最初の日付は一九七〇年七月一日になっていた。七海が生まれる十年以上も昔の話である。
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