2012.12.10 文春写真館

昭和とともに歩んだ
美空ひばりの波乱万丈人生

文・写真: 「文藝春秋」写真資料部

昭和とともに歩んだ<br />美空ひばりの波乱万丈人生

 昭和時代を代表する歌手、美空ひばりは本名加藤和枝。昭和十二年(一九三七年)横浜生まれ。昭和十八年、魚屋を営む父が出征することになったが、壮行会の席で「九段の母」を歌い、出席者から賞賛された。これを機に慰問活動を始める。戦後、母喜美枝は青空楽団を結成、ひばりを地元で歌わせる。昭和二十三年、川田義雄に見出され、一座に参加、笠置シヅ子の物まねが評価され、「ベビー笠置」と呼ばれた。当時、詩人のサトウハチローは、「近頃、大人の真似をするゲテモノの少女歌手がいる」と批判、これが大きな反響を呼ぶこととなった。

 昭和二十四年、「悲しき口笛」で映画主演デビュー、主題歌が大ヒットする。翌年、「東京キッド」で映画も主題歌も続けてヒットし、幼くして大スターへの道のりを歩み始めた。昭和二十八年「お嬢さん社長」に主演、母から「お嬢」と呼ばれるようになり、このニックネームが定着する。

 写真は昭和二十九年五月に撮影されたもの。この年、紅白歌合戦に初出場する。翌年には江利チエミ、雪村いづみとともに映画「ジャンケン娘」に出演、「三人娘」として人気を博した。そして昭和三十七年、日活のスター、小林旭と結婚し世間の注目を集めたが、二年後離婚。直後に発表した「柔」は空前のヒット曲となった。

 昭和四十八年、実弟の不祥事や暴力団との関係が取りざたされ、紅白歌合戦の出場辞退を余儀なくさせられるなど、こののち受難の日々が続いた。しかし、洋楽のアレンジや、人気シンガー・ソングライターによる楽曲提供で、歌手として活躍の場を広げていった。

 昭和五十六年、母を亡くした後、二人の実弟も相次いで他界し、自らも昭和六〇年、腰痛を発症し、入院。以降、晩年は病魔と闘うこととなる。しかし、昭和六十三年、東京ドームで伝説的な「不死鳥コンサート」で、三十九曲を熱唱した。平成元年(一九八九年)二月、北九州市でのコンサートを終えた後、入院。六月に呼吸不全で世を去った。

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