2014.10.20 文春写真館

坂井義則が果たした大役・東京オリンピック最終聖火ランナー

文・写真: 「文藝春秋」写真資料部

坂井義則が果たした大役・東京オリンピック最終聖火ランナー

「世界中の秋晴れを全部東京に持ってきてしまったような、素晴らしい秋日和でございます」

 昭和三十九年(一九六四年)十月十日、東京オリンピックの開会式で、テレビ中継のアナウンサーの言うとおりの青空のもと、最終聖火ランナーを務めた坂井義則。

 昭和二十年八月六日、広島に原爆が投下された日に、同じ広島県の三次市に生まれたが、被爆者ではない。

 高校在学中に国体の四百mで優勝。オリンピックを目指して早稲田大学に入学し、競走部に入部。代表選考会で惜しくも敗退したが、広島で原爆の日に生まれたことが注目され、聖火ランナーに選ばれた。

 それについて本人は、大人の勝手と欺瞞を感じつつも、日本人が戦後の平和と復興の象徴を求めていることを痛感し、「原爆ボーイとみられるのなら、それも甘んじて受け入れよう」と思ったという(文春新書『東京五輪1964』佐藤次郎著より)。

 無事に大役を果たしたとき、スタッフと一丸になり、また国民が心を一つにして成し遂げたという実感をつかみ、それがオリンピックの素晴らしさだと心に刻んだ。

 その後昭和四十一年のアジア大会では千六百mリレーで金メダル、四百mで銀メダルを獲得するが、アキレス腱の故障で競技を断念。だが生来のポジティブな心性からマスコミに興味を抱き、卒業後はフジテレビに入社し、スポーツ報道で大いに活躍する。

 オリンピックの取材も何度も経験し、テロや政治利用、商業化などをつぶさに見つめて幻滅と慨嘆を口にしつつ、それでも、二〇二〇年の東京オリンピック開催の決定を喜び、「スポーツは大きな力を持っている。ましてオリンピックという特別な舞台です。次世代の子どもたちがじかにそれを見れば、間違いなく多くのものを得るでしょう」と言って楽しみにしていた。

 だが平成二十六年九月十日、脳内出血により死去。六十九歳だった。六年後の東京オリンピックは、彼の理想を引き継ぐものになるだろうか。

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