小さな国が大国の横暴のもとで弱っているときに忽然と現れるヒーロー。なんとかっこいい、そしておいしい役柄であろうか。万を数えるプロフェッショナルな軍人に対して、たかだか数千の村人集団。普通ならまったく勝てるわけがないのであるが、そこは墨者、驚くべき戦略と技術を繰り出して、大国をきりきりまいさせていく。そのすごい戦法こそ、本書の読みどころだ。
だが、本書は単に心地よいヒロイック・エンターテインメントに収まらない。なにしろこの作者は、純文学と通俗文学の混血児にして世界文学の最先端に匹敵すると目(もく)されている、あの日本ファンタジーノベル大賞の第一回目の受賞者・酒見賢一なのだ。受賞作『後宮小説』という類(たぐ)い稀(まれ)なる傑作の登場は、忘れ難い事件だった。後宮、つまり王のハレムへと三食昼寝付きの贅沢でラクな暮らしをめざして入内(じゅだい)した少女が、なぜかキャリアウーマンばりの活躍をするという、奇想天外な物語。王の血統存続のための楽園を、変わり者の少女のフロンティアに変えてしまった、あの顛末(てんまつ)の、柔らかいユーモアと中国文学へのたしなみを、読者はどれほど楽しんだことだろう。本書でも、十重二十重(とえはたえ)の文学的仕掛けが施されているのを覚悟しなければならない。
わけても一番の話題は、「墨家」という謎めいた存在への関心である。とくに、彼らがかなり特殊な思想をもっていたことを、見事に物語化している。
本書でも詳述されるが、墨子の思想の代表的なものは、「兼愛」と「非攻」だ。
前者「兼愛」は、儒家たちが「家族愛」を主としていたのに対し、家族をこえた博愛主義を掲げていたことを意味する。家族愛などというものは、家族に対して特権を与える、差別的なものにすぎない、という前提がここにある。周王朝の封建制の精神性こそ、世襲の、つまり家族愛のなかにあったわけだから、それを超越した愛を主張する「兼愛」は、当時、あまりにもラディカルであった。家族を社会の一単位としそこから国家へとつなげていく(貴族たちの)封建制社会より、個人の自由な集団(たとえば当時の工人)、つまり庶民をベースにした強い絆を重要視すること……。貴族ではなく、庶民の視点から主張されたこの考え方は、墨子が貴族ではなく、低い身分だったからこそ着想できたのではないか、と言われている。墨という名前は、なんだか黒ずくめ衣装のゴシック風味といった感じでそそられるけれど、実際には昔、罪人の顔に刺青(墨)を彫り込んだというところから、墨子をその手の人物と位置づける説もあるそうだ。
後者の「非攻」は、攻めない、とのことば通り、攻撃による戦争行為を否定する思想である。これは、当時の世相を鑑みる限り、甚だ無謀な考え方であろう。なにしろ、群雄割拠の戦国時代のまっただ中。戦のかけひきが、あちこちで繰り広げられている最中である。しかし、墨家らは、大国へおもむいては非戦論を説き、大国の侵入を受けた小国を防衛するために、防衛部隊を遣わした。つまり、攻撃はしないけれども、守るためには徹底的に闘うのだ。なんだか、21世紀日本の現在をも連想させるような非戦論だが、残存しているテクストの『墨子』には、ビックリするほど高度に技術論的な兵法のスキルが記されている。本書でもその驚くべき技術が楽しく紹介されている。
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