月刊の小さな雑誌に、一回千字ずつ、食べものについて書いてきた。それが本になった。ちょっと嬉しい。自分の手で取上げ、手塩にかけて育てた馬が、健康な仔馬を産んでくれた時の胸のふくらみに似ていると思う。
私は満州の開拓団で育った。八百屋や魚屋があるわけではなく、原野からもぎとるようにして何でも食べた。ツル、フクロウ、カモにキジ。タヌキ、キツネ、イノシシ。川や沼が氷にとざされるまでの短い夏、魚釣りは日課だった。ソウギョ、ライギョ、カマツカ、ナマズなどなど、柳の枝を切り、自分でこしらえた竿で釣りまくった。
釣りは、終生、私の傍らにあった。中学高校と大分県の日田市で過したが、軒先からハチの巣をもぎとり、その中から幼虫を掘り出して餌にし、釣りまくったものだ。
この頃、“もぐり”を覚えた。アユ突きがうまくなった。
大学で学ぶため東京に出てからは、海に出るようになった。一本釣りが得意であり、漁船に“釣り子”としてやとわれたりした。
そして動物学科。
三浦半島、油壺に大学附属の臨海実験所があり、美味なる食材が実験の対象になった。ホヤ。各種のウニ。ムール貝やアサリ。エビやカニ。
産卵から発生を調べる。産卵期はまさに食べる方での旬でもあった。自分の手で実験材料を採集したいので、潜水が本格化し、かなり上達した。
卒業。映画会社を経て独立。
よく釣りに行った。釣りと潜水から離れることは出来なかった。 釣りとは何だろう、海の中で、魚は、どのようにして餌にとびついているのか。
水中用の竿をこしらえた。多種多様の魚を釣り、そして食べた。皮を剥ぎ、新鮮この上もない魚を口にほうりこむと、カワウソにでもなった気がした。魚屋や寿司屋に並ぶ海の幸は、ほとんどすべて、海の中で見たし、自分の手で割いた。
でも、これは料理ではない。
胃癌で胃を失ってからは、料理にこだわるようになった。人がこしらえた美味しいものを、まるで熱病にでもかかったかのように、今日も、明日も食べたくなった。
東京のフランス料理店を調べ、しらみつぶしに食べに行った。
折から、テレビの仕事が始まり、しばしば外国に出かけるようになった。スーツケースにトラベリングロッドを忍ばせておき、世界中の海や川で釣りをした。ヘルシンキでは着いたその日、港へ行くと、ニシンが続けざまにヒットした。ナイフでさばき、尾を持って口の中へとたらしこんだ。その旨かったこと。
マグロを釣った。特大のヒラアジ。キングサーモン。