
本書『夜の底は柔らかな幻』は、もともと、文藝春秋の老舗小説誌〈オール讀物〉二〇〇六年九月号から二〇〇九年十二月号まで、三年余にわたって連載された大長編。完結からさらに三年余を経た二〇一三年一月にようやく単行本化され、四六判ハードカバーで刊行された。上下巻合計七〇〇ページの物量を誇る、恩田陸の数ある小説の中でも指折りの大作だが、話の派手さ、スケールの大きさでも、たぶん一、二を争うだろう。クライマックスでは、それこそ平井和正『幻魔大戦』や大友克洋『童夢』もかくやの一大サイキック・アクションが展開する。読み出したら止まらない、怒濤のノンストップ・エンターテインメント巨編。
物語の舞台は……と小説の紹介に入る前に言っておくと、私事でたいへん恐縮ですが、大森は高知生まれの高知育ち。京都に住んでいた学生時代は、休みのたびに、新快速で岡山まで行き、宇野から連絡船で高松に渡り(当時、まだ瀬戸大橋は存在しなかった)、土讃線で帰省するのがつねだったので、本書を読みはじめてすぐ、懐かしい風景が目に浮かんだ。いわく、
深いV字形をした谷の底に、エメラルド色の水が湛えられていて、午後の陽射しにキラキラと輝いていた。(中略)
それは太古の地殻変動の名残りで、圧縮された岩盤が地上に露出した場所であるとのことだった。押し潰された岩々の縦、横、斜めの直線が、切り立った渓谷いっぱいに複雑な抽象画のような模様を描いている。
異形の景色。
透明であれば水晶そっくりの岩に一面を埋め尽くされた壁がえんえんと続く。それは、巨大な屏風にも見えた。
作中では“水晶谷”と呼ばれ、噂によると、年に一度、特別な満月の夜、すべての岩が透き通って、水晶の中に埋まっている仏様を拝めるという。小説全体の中でもたいへん重要な役割を果たすこの水晶谷のモデルが、四国・剣山国定公園の一画に位置する景勝地、大歩危(おおぼけ)・小歩危(こぼけ)。JRの特急・南風で岡山から一時間半、阿波池田駅を過ぎたあたりから、土讃線の線路は吉野川沿いを走りはじめ、大歩危・小歩危を紹介する観光アナウンスが車内に流れる。ちなみに、“ほけ”とは断崖を意味する古語。大股で歩くと危ないから大歩危、小股で歩いても危ないから小歩危――という語呂合わせから、この漢字を当てられたらしい。“透明であれば水晶そっくりの岩”は、結晶片岩。ネットで大歩危・小歩危を画像検索すれば、インパクトのある奇岩怪岩の写真が大量に出てくるので、見たことがない人はぜひチェックしてみてください。僕にとっては、土讃線に乗るたびに窓から眺めた原風景。子供の頃は、学校の遠足でも、よく大歩危・小歩危に行ったもんです。
冒頭の列車の場面を読むだけで、そのころの思い出がどんどん甦ってくるのは描写の力か。けだし、恩田陸は、紀行作家としても一流なのである。実際、著者はこれまでに、さまざまな現実の土地を小説の舞台のモデルにしてきた。『月の裏側』の柳川(箭納倉)、『puzzle』の軍艦島(鼎島)、『黒と茶の幻想』の屋久島(Y島)、『クレオパトラの夢』の函館(H市)、『まひるの月を追いかけて』の奈良……。
その恩田陸が、いよいよわが故郷・高知を舞台に選んでくれたのか――と気分はいやがうえにも盛り上がり、小説と一緒に南風で帰省しつつあるような錯覚に陥ったわけですが(大歩危まで来たら、あとほんの一時間くらいで高知駅にたどり着く)、本書に出てくるのは現実の高知ではない。“侵略”が静かに忍び寄る水郷の街・箭納倉が現実の柳川と違うように――いや、その違いをはるかに上回って――もうひとつの高知が構築されている。その名も“途鎖”。まあ、四国山脈で愛媛・徳島と隔てられている土佐・高知は、たしかに四国四県の中でもいちばん閉鎖度が高い。高知出身の作家・坂東眞砂子の『死国』や『狗神』でも、高知は一種の異界として描かれているから、超能力者たちを思う存分暴れさせるのにふさわしい土地柄かもしれない。それにしても途鎖国って……。
と、ここであらためて設定を紹介すると、作中の世界(一種のパラレルワールド)には、“イロ”と呼ばれる特殊能力(一種のサイコキネシスなど、いわゆる超能力)を持つ“在色者”が(日本のみならず海外にも)多数存在し、イロを使った犯罪もあとを絶たない。とりわけ、途鎖国(地理的には、高知県とほぼ重なるらしい)に生まれ育った人間には在色者が多く、そのためか、途鎖国は日本から半ば独立した治外法権エリアとなっている。在色者の入国は厳しく禁じられ、一般人もビザがないと入国できない。密入国は重罪で、捕まった場合には死刑判決を受けることもざら。途鎖国では、密入国を取り締まる入国管理局が大きな権力を持ち、警察以上に恐れられている。
主人公は、その途鎖国で生まれ育った有元実邦(みくに)。ある事情から若くして故郷を離れた彼女が、秘密の使命を帯びて十六年ぶりに帰郷する場面で小説は幕を開ける。冒頭の舞台は、途鎖国へと向かう、明るい昼下がりの特急列車。やがて、紺の帽子に制服を着た入国管理官の女性が通路を歩いてくる……。
同じ列車に乗り合わせた(特殊な力を持つ)人々のドラマが緊密なサスペンスを醸し出す導入は、超能力SFの名作、筒井康隆『七瀬ふたたび』冒頭の夜行列車のシーンを否応なく思い出させる。しだいに張りつめてゆく空気。そして突如、激しいアクションの火蓋が切られる。
その後、おもむろに登場するのが、入国管理局に独裁者のごとく君臨する局次長、葛城晃。隻眼の彼は、実邦とも深い因縁を持つ、強力な在色者だった……。
両者が相見えるのが上巻の五十ページあたり。そこから先、ひと癖もふた癖もある個性的な人物が次々に表舞台に上がってくる。
列車で実邦と知り合う謎の男、黒塚弦。実邦の(在色者としての)恩師であり、現在は国立精神衛生センターに拘禁されている屋島風塵(やしまふうじん)。実邦の親友である医師の須藤みつき。みつきとつきあいの長いバーのマスター、軍(いくさ)勇司。実邦の護衛役として一緒に山に入る途鎖国の刑事、善法(ぜんぽう)。ヨーロッパで指名手配されているシリアルキラー、青柳淳一。そして、影の主役が、数々のテロ行為の首謀者とされる危険人物・神山倖秀。
途鎖国の山間部には、フチとよばれる無法地帯が広がり、犯罪者や暗殺者を含む多くの在色者たちが潜んでいる。その頂点に立つソクの座についたのが、この神山倖秀。本書の下敷きになったというフランシス・フォード・コッポラ監督の映画『地獄の黙示録』(および、その原作のジョゼフ・コンラッド『闇の奥』)で言えば、ジャングルの中に独立王国を築くカーツ大佐(クルツ)に相当する役どころだ。
おりしも、今は闇月。弔いの季節にあたるこの時期には、なぜか在色者の力が強くなるため、腕に覚えのある数百人の犯罪者や密入国在色者が山に入り、頂上を目指す。彼らが戦う殺人ゲームに勝ち残った最後のひとりが、ソクの称号を得て、フチを支配できるのだという……。
対するヒロインの有元実邦も、実はバイアスロンのオリンピック代表という経歴の持ち主。めまぐるしいアクションの合間に、多彩な登場人物たちの過去が少しずつ明かされ、秘められていた実邦の目的や、イロに隠された真実が浮かび上がってくる。水晶谷に隠されたホトケとは? 水晶筋がなぜ在色者に影響するのか?
ファンならご承知の通り、超能力者の物語は著者の十八番。『光の帝国』『蒲公英草紙』『エンド・ゲーム』と続く《常野物語》シリーズや、恩田版『ファイアスターター』(スティーヴン・キング)ともいうべき『劫尽童女』など、著者はさまざまな超能力者を描いてきた。しかし、サイキック対決の要素をここまで前面に押し出したのは本書がはじめてだろう。
この文庫版の巻末に「あとがき」として特別収録されたエッセイ「『地獄の黙示録』をやる、という初心で始めた小説」(〈本の話〉二〇一三年二月号初出)にも書かれている通り、出発点は、ウェブ雑誌〈SF ONLINE〉の一九九八年十月二十六日号に掲載された短編「イサオ・オサリヴァンを捜して」(現在は、新潮文庫の短編集『図書室の海』に収録)。というか、著者にはもともと、ルーシャス・シェパードの近未来超能力戦争SF『戦時生活』にインスパイアされたベトナム戦争ものの長編『グリーンスリーブス』の構想が先にあり、その予告編として書かれたのが「イサオ・オサリヴァンを捜して」だった。
表面的には本書とまったく関係ない短編(本書のラストで明かされる謎と若干のつながりがあるだけ)なので、先に読む必要はありませんが、気になる人は、本書を読んだあとでそちらに目を通すと、なるほどと納得するかもしれない(ところで、前述の「あとがき」は、本書の設定について若干のネタバレを含んでいるので、あとがきから先に読むタイプの人は注意。って、もう遅いか)。
ちなみに、この『グリーンスリーブス』は、九八年五月に開かれたイベント「SFセミナー1998」の恩田陸インタビューで著者が披露した長編の構想十一作(!)のひとつ。結局、いまにいたるまで『グリーンスリーブス』は書かれておらず、日本編が先に発表されたことになる。ついでに言うと、このとき恩田さんが披露した構想(タイトルとおおまかな内容)のうち、『月の裏側』『ライオンハート』『ロミオとロミオは永遠に』『ユージニア』『夜のピクニック』の五作はすでに刊行済みで、『闇の絵本』は連載中、『グリーンスリーブス』は予告編のみ、『ピースメーカー』は取材記のみ発表されている。残りの三作、『草の城』『海鳴りとめまい』『夜舞うつばめ』は(少なくとも当時の構想とタイトルのままでは)まだ作品化されていない――と、以上、余談でした。
ともあれ、このときから長い熟成期間を経て完成した大作『夜の底は柔らかな幻』は、オールスターキャストで上演される恩田エンターテインメントの集大成。題名に象徴される静かで幻想的な光景と、超能力を駆使した激しいバイオレンスが絶妙のコントラストをなしている。アクションだけでなく、比類ない恐怖と緊密なサスペンス、詩情と旅情、そして最後には驚天動地のSF的どんでん返し(まさか、仏像にそんな意味があったとは!)までプラスされる。この徹底したサービスを心ゆくまで堪能してください。