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「場所」の魔力と「日常」の重さ

「場所」の魔力と「日常」の重さ

「本の話」編集部

『ホーラ 死都』 (篠田節子 著)

出典 : #本の話
ジャンル : #エンタメ・ミステリ

場所の持つ魔力

――舞台となるパナリア島は架空の島ですが、モデルにした土地はあるそうですね。

 宗教的な雰囲気が辺りを覆っていて、山というか丘の上に古い町がある、というのはギリシャでは一般的なんです。でもモデルにしたところは強烈な印象でしたね。丘の一番てっぺんに廃墟と化した町があるんです。いままでに廃墟はたくさん見てきましたけど、町が滅びた跡というのは日本だったら石垣くらいしか残らないんですが、でもそこは、建物自体が生々しく残っていました。その丘の上に行くまでの階段も、急な勾配で独特のカーブを描いていて、すごくきれいだった。よくこんなところに町を作ったなと、場所の持つ魔力を感じました。

 結局、ひとつの文化が滅びて別な国が入ってきて、新たな文化ができた場所というのは、前の人々が持っていたもの――生命力とか情念みたいなものが、まだその場所に残っている気がするんです。たとえば戦場ヶ原のように、ここで戦いがあってたくさんの人が死んで……というのだと話は別ですが、そこで生きていた人々の思いや暮らしぶりが気配として生々しく残っている。これが古代の遺跡だったら単に歴史・考古学遺産なんですが。三、四百年前の廃墟ですから、余計にね。それはギリシャならではだと思います。

――物語そのものに話を移しますと、主人公の亜紀は四十代半ばで、建築家の聡史(さとし)と十五年にも及ぶ不倫の関係をつづけています。亜紀の職業はヴァイオリニストです。

 人に言えない関係のふたりが、海外を旅行するという設定では職業は限られてきます。リアリティを念頭に置くと、演奏家という職業は自然だと思うんですね。

 もうひとつ、この作品の大きな要素にギリシャ正教があります。現地に行ったとき、教会から聖歌が聞こえてきたんです。ところが歌っているとばかり思っていたら途中からお祈りになってきて、つまり、お祈りが朗唱だった。どこまでが音楽でどこまでがお祈りなのか、まったく区別がつかないのだけれど、それがとても神秘的に聞こえて、人の声の芸術で、素晴らしいものでした。でも楽器は一切使っていなかったんです。カトリックの場合は、伴奏でオルガンなどの楽器を使ってそれが教会音楽として発展したけれど、ギリシャ正教にはそういう歴史がまったくない。むしろ、ヴァイオリンなどの弦楽器は享楽的な物として扱われているんです。私は最初に聖歌と朗唱を聞いたとき、正教では楽器を使わないのを知らなくて、これをチェロで弾きたいなと思った。でも後日、楽器を使った音楽は世俗の楽しみに限定されるということを知って、面白い対立軸ができるなと考えたんです。それで、亜紀の職業をヴァイオリニストにしました。

――ギリシャ正教といえば、日本人にとってはほとんど馴染みがないものです。亜紀たちも普通の日本人の感覚ですから、異教徒としてそれと接しての葛藤や戸惑いも、色濃く描かれています。

 ギリシャに行って一番印象に残るのは、やはり教会と修道院でした。宗教が日常生活の枠組やリズムを作っているみたいに感じましたね。人の心の中に常に神がいて対話しているというよりも、空気みたいに入り込んでいる感じ。人の夫と一緒に旅行して事故に遭って、さあどうしようというとき、「ばれなければいいや」という文化ではなくて、宗教的な規範や倫理観が内在化しているような土地柄であれば、いやでも葛藤は出てきますよね。開き直っているわけではないけれど、自分自身に対して嘘に嘘を重ねて、なんとなく薄汚くなっていく。罪ではないけれどうそ寒い感じを覚える。でも、恋愛感情自体はかなり純粋なものである。そういう状態は、多かれ少なかれ葛藤を抱えはするけれど、こういう土地柄ではばっさり否定されてしまう。

 それから、作中でも修道院が頻繁に出てきますが、実際に現地で修道女さんの話を聞かせてもらったとき、修道院に入ったりギリシャ正教に改宗した人の例をいろいろ引いた挙げ句に、「あなたもちゃんと勉強すれば立派な修道女になれますよ」と言われて、ふらふらとその気になりかけたんですよ(笑)。老いた親も仕事もほうり出せたら楽だろう、って(笑)。でも結局のところ、そういう選択肢は絶対にありえないよね、という形で日本に帰ってくる。義務と責任と立場を背負ってこの先も生きていかなければならない、そういう年代の女性の心情を書きたいという思いが強かったですね。

【次ページ】現実を背負った人生

文春文庫
死都
ホーラ
篠田節子

定価:618円(税込)発売日:2011年01月07日

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