別冊文藝春秋

「言葉で」

文: 飴屋 法水

飴屋法水「彼の娘」

言葉というのは、とても不思議だ。

 

犬、と書けば、

犬、を思い浮かべることができる。

犬は、どこにでもいるし、誰でも知っている。

 

犬と書けば、犬が伝わる。猫と書けば、猫が伝わる。

犬と書いて、猫が伝わるのはたいへんに困る。

そういうことは、間違え、という。

 

間違えに気づけるほどに、僕らは犬を知っている。

いまだ知らない、なにかのことを、言葉にすることができない。

 

人は、知っていることしか、言葉にできない。

それなのに、にもかかわらず。

人は、すでに知っていることは、言葉にしない。

 

どこにでもいる、誰でも知っているその犬が、

ここにしかない、たった一匹の犬に思えたとき、

人は、犬のことを語り始める。

誰もが知っている、犬という言葉で。

 

 

娘のことを書いた。

どこにでもいる娘について書いた。

ここにしかいない娘について書いた。

 

自分の娘であるような、誰かの娘であるような、誰の娘でもないような。

娘ですら、ないような。

それでも今、彼女は、まるで私の娘のように見える。

 

正直なところ、正体は、わからない。

よくは、わからないので、書いてみようと思った。

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