書評

迷わせ上手、遭難上手

文: 河合 香織 (ノンフィクション作家)

『やわらかなレタス』 (江國香織 著)

 見知らぬ場所は過去の記憶とも繋(つな)がっていく。継ぎ目になるのは身体的な感覚、なかでも多くが食による。めかぶを湯通しすれば、海に春が来るのを目撃したかのような気持ちになる。牛肉のフリルのようになった白い脂身を「ぷりぷり」と呼んでいた幼い日、父が喜んでいたのにそれを食べられなくなったこと。情熱的に食事を愉しんでいた犬が腎不全になり、食べ物が制限される。一日一回、白い薬をブドウに埋め込んで与えることにした。豪華なレストランで肉の上にスライスされたブドウを見てそのやるせなさを思いだす。

 寂しさを描いてもどこまでも柔らかく、さりげない日常を紡いでもどっしりと重量感がある。庭の白い薔薇の木が、ある年だけはなぜか一斉に紅くなったというエピソードが書かれているが、予期せぬ紅い薔薇が突然咲くかのように言葉が紡ぎ出されていく。

 そんな物語の世界に迷い込んだら、虚実の境界は流れだし、本当は書かれていない声を聞くこともあるかもしれない。表題の「やわらかなレタス」は、『ピーターラビットのおはなし』による。服を着たうさぎのピーターは、畑にしのびこんで野菜を食い荒らす。人間に見つかって、むちゅうで逃げているうちに、すこしずつ自分が戻ってきて、逃げのびたという安堵は恐怖以上に圧倒的で、ほとんど幸せ死にしそうになる。彼は命の危険を冒してまで食べたレタスに感嘆してこう云うのだ。

 「なんてやわらかなレタス!」

 ぱりっ、さくさく、しゃりしゃりではなく、やわらかいレタスってどういうことだろうかと江國さんは訝る。それってしなびていることなのかとも。そうして思い至る。いつもは野生の雑草を食べているピーターにとっては、レタスは驚くべきやわらかさだったに違いないことを。

 心踊るこの話、しかし、さらに胸がぱっとはじけるような愕きが待っている。ピーターラビットの世界に迷い込んだ江國さんが紡ぐ森に、読む者は一層深く迷い込んでいくだろう。物語の力にうなだれ、エッセイもまた剛健なまでに物語だということを改めて感じた。

 いつだって世の中は危険に溢れ、うまくやろうとして緊張する。しかし、実は迷うことは解き放たれることではないだろうか。都会の真ん中でも鬱蒼(うっそう)とした田舎でもどこにいても。迷うからこそ、日常の価値がわかる。憧れたあたたかいジュースは、実際に飲んでみれば寂しい味だったりもするのだ。

 そして、本を閉じれば、私たちはそれぞれの日常に帰っていく。それでもなお、冬眠しているはずの雪の夜に起きてあたたかいジュースを飲んだことを忘れないだろうということと同じように、このエッセイに遭難した思いは残り、ずっと心をあたため続けてくれる。

やわらかなレタス
江國 香織・著

定価:1300円(税込) 発売日:2011年02月25日

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