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第四回 無二の親友、由里と出会う

傾国子女

島田雅彦

傾国子女

島田雅彦

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第6章 花岡家で始まった新生活

 父が自分の九倍いい人といった花岡時雄は世田谷の豪徳寺で内科、小児科、産婦人科の専門医を抱える小さな病院を経営していて、自身は小児科医でした。病院から歩いてすぐのところにある自宅に一人で暮らし、二人の家政婦が通いで身の回りの世話をしていました。三メートルの塀に囲まれた邸宅の庭には桜の大木が三本、杏や枇杷や柿などの果樹もあり、池では鯉と亀を飼っていました。家の中にはチャンドラグプタという名前の目付きの悪い太った猫がいて、ムートンの敷物の上に座り、私と母をじっと観察していました。

 私たちはめいめいの個室を与えられ、我が家にいるつもりで寛ぐようにいわれました。

 三階建ての邸宅の玄関を開けると、吹き抜けのホールがあって、幅の広い螺旋階段がついていました。ホールの奥にはキッチンとダイニングルームがあり、その脇にはグランドピアノとビリヤード台が置かれたパーティルームがあって、そのまま庭に出られるようになっています。二階には客室が四つあり、そのうちの東西二つの角部屋を母と私が使うことになりました。バスルームは納戸の脇にあり、庭が一望できる場所に設えられていました。その隣は花岡の書斎で、壁一面に本とレコードが収められ、彼はよくここで音楽を聴いていました。花岡の寝室は三階のペントハウスで、晴れた日にはサンデッキにハンモックを吊るし、読書をするのだそうです。

 初めのうちはこのリゾートホテルのような邸宅で旅行気分に浸っていられたのですが、一週間もすると、花岡の趣味や裕福ぶりが随所に感じられる邸の空気が重苦しくなってきました。夕食は花岡が家にいる時は、三人一緒に取るのですが、雰囲気が晩餐会のようで落ち着きません。我が家にはあった茶の間はこの邸にはなく、自分の喜怒哀楽をさらけ出せる団欒の場もありませんでした。長い廊下を通って、トイレに行く時も、黒御影石の大きな浴槽に浸かっている時も、自分の部屋のベッドに横たわり、本を読んでいる時も、常に誰かに見られている気がしてなりませんでした。視線を感じて、そちらの方を見ると、必ずそこに花岡家の主チャンドラグプタの姿があります。私たちは何をするにもこの猫の顔色を気にしなければならないようでした。この家の居心地をよくするためには、チャンドラグプタを手懐ける必要がありました。

 母は表向き、上機嫌でした。花岡は夫よりも誠実で、人徳があり、生活力がある。しかも、自分を女として見てくれている。母は夫に期待できなかったことをまとめて花岡に期待していたのです。母は輝きを失いかけた自分に磨きをかけようと必死でした。母はこの時、三十八歳でした。

 花岡は週に五日、病院で診察を行い、木曜日と日曜日に休みを取る規則正しい生活を送っていました。木曜日の休みには外出し、遅くまで帰ってきません。土曜日の午後から日曜日にかけては泊まりがけで何処かへ出かけました。月に一度は私たちと過ごそうと努めてくれました。

 私は眠りが丘の公立中学校から世田谷のカソリックの私立女子中学校に転校しました。学校の雰囲気も一変し、家にいる時と同様の息苦しさを感じました。私には新しい環境に馴染むことより、自分の殻の中や物語の世界に逃避する方が楽でした。

 私と母が花岡家の世話になるようになって、最初に私が自分に課したミッションは、父の友人花岡時雄が私たち母子に何を求めているかを探ることでした。

 一見、無欲に見える態度の裏で、容易には手に入らない何かを求めている。純粋に人助けのために、私たちの生活を援助するなどということはありえない。

 根拠はありませんが、私はそう思いたがっていました。母が花岡を信頼すればするほど、私は彼の裏面を知りたくなる。対外的に人格者で通っている人は、何か悪癖を隠しているに違いない。そう思うことで、少しでも父のメンツを立てたかったのです。父に置き去りにされてもなお、私は父の味方でいたかったから。

 花岡は診察を終えて、まっすぐ帰宅した日は、私たちと夕食をともにし、風呂に長時間浸かると、書斎で夜更けまで過ごします。電話で誰かと長時間、話したり、音楽を聞きながら、お酒を飲んだりしているようです。休日に外出先から帰宅した時はそのまま寝室に直行することもあれば、気紛れに普段誰も使っていない部屋で長時間、猫と戯れていたりもします。概して、物静かな人でした。

壁越しに感じる秘め事の気配

 ある日、花岡が母の部屋をノックしました。一言二言あって、母は書斎に行き、そこで花岡とお酒を飲みながら、夜遅くまで話し込んでいたようです。次の日の朝、私は母の部屋をノックしましたが、返事はありませんでした。私が朝の支度を済ませ、一人で朝食を食べていると、母は憑き物が落ちたような爽やかな乙女顔で、テーブルに着きました。五分遅れて、花岡がポーカーフェースで螺旋階段を下りてきました。花岡を見る母の目は一回り大きくなっていました。ああ、二人のあいだに何かあったな、と思いましたが、晩生の私はまだ男と女の秘め事を具体的に想像することができませんでした。

 二日後、私がトイレから自分の部屋に戻ろうとすると、階段を上ってくる足音が聞こえました。私はとっさに母の部屋の隣の空き部屋に隠れました。花岡が母の部屋をノックすると、母は間髪を入れずにドアを開け、花岡を迎え入れました。私は自分の部屋に戻るタイミングを逸してしまい、息を潜めて花岡が去るのを待っていました。二人は何事か話し合っているようでしたが、壁越しではその内容まではわかりません。ふと、部屋の暗がりでかすかに光る物が見えたと思ったら、チャンドラグプタでした。ここは花岡が猫と遊ぶ部屋でした。花岡は猫の健康診断もするのか、床には聴診器が落ちていました。私が何気にそれを耳につけ、聴音部を壁に押し当ててみたとたん、自分も同じ部屋に居合わせているように、二人の会話が生々しく聞こえてきました。

――あの人を忘れさせてください。

――どうすれば忘れられるのかな?

――こうして毎晩、あなたが私を抱いてくれれば、私は少しずつあなたのものになります。

――ぼくが君たちを買ったなどと思わないでくれ。

――私は売られてよかったと思っているんです。だから、どうぞ私を好きにしてください。

 母の囁きに私は動揺しましたが、聴診器を壁に押し付けたまま、その後の成り行きをじっと聞いていました。粘膜が絡み合う音に吐息が重なり、次いで衣擦れの音が聞こえました。さらにベッドのスプリングが軋む音がすると、母の短い呻き声が漏れてきました。ベッドの軋む音と粘膜質の音はより激しくなりました。

 壁から管を通って、耳に伝わる音が像を結び始めました。花岡が眼鏡をかけたまま、赤ん坊のように母のおっぱいを吸う光景がまざまざと瞼に浮かび、ついで母が口を一文字に結び、声を押し殺している様子が見えるようでした。私はいたたまれなくなり、聴診器を耳から外すと、音を立てないよう部屋のドアを開け、猫の忍び足で自分の部屋に戻りました。しばらくは胸がドキドキして眠れません。母が囁いたコトバが耳にまとわりついて離れません。

 ドウゾワタシヲスキニシテ……

 ワタシハウラレテヨカッタ……

 父は母と私を花岡に売ったのです。そして、母はそれを受け容れることで、父を捨てたのです。

 私が私のものでなくなるってどういうことなのだろう? 父は私に何をさせたかったのだろう? 花岡は私をどうするつもりだろう?

 私には父の裏切りも母の冷淡さも理解できず、漠然とした不安に胸を締めつけられ、枕に顔をうずめて泣くことしかできませんでした。

第7章 難病を患う風変わりな少女

 転校先の中学ではなかなか友達ができませんでした。郊外の公立中学から転入してきた私は転入試験を受けたにもかかわらず、「ずるをした」と噂されていました。陰では「川の向こうから来た子」、「ちゃっかり転校生」などというあだ名で呼ばれてもいたようです。

 私はいつも一人で、登校から下校まで、出席確認に返事をする以外、一言も話さない日も珍しくありませんでした。同級生たちの眼差しは冷ややかで、刺々しく感じられ、なるべく目を合わさないようにしていたのですが、それがさらに「いけすかない子」という印象を与えてしまったようです。

 いつものように同級生たちの輪から離れて、一人駅のホームに立ち尽くしていると、まっすぐな視線で私を見つめながら、近づいてくる同級生がいました。彼女は欠席や早退の多い子で、三日続けて教室にいることは滅多にありませんでした。それでも、勉強はよくできて、試験では常時、学年のトップ10に入っていました。ちなみに私は四十番目くらいでした。彼女は音楽の授業中に鼻血を出し、たまたま後ろの席に座っていた私が彼女を保健室に連れて行ったことがありました。

――あなた、白草千春さんでしょ。あたし、コウダユリ。

 ぶっきらぼうな口調ときつい眼差しに私は一瞬、怯みましたが、ボストンバッグに縫いつけられた名前を見て、私はくすりと笑ってしまいました。甲田由里……似たような字ばかり集めた名前だと思いました。

――ふざけた名前でしょ。名前を決める時、父が酔ってたの。私は気に入ってるけど。

――もしかして、お父さんは甲田由男?

――残念でした。甲田由男は伯父の名前でした。

――やっぱり親戚にいたんだ。

 甲田由里は貧血を起こしやすく、また怪我をするとなかなか血が止まらないということもあって、体育はほとんど見学でした。ほとんど友達がいないところは私と立場が似ていました。彼女は血液中の赤血球や白血球、血小板の数が著しく減少する「再生不良性貧血」という難病を患っていました。いつも青白い顔で、瞼には血管が浮き出ていました。通学途中に貧血で倒れるのが怖いので、一緒に登下校してくれる相手を探しているといわれ、私でよければ、と立候補しました。ようやく話し相手になってくれる人と巡り合えました。

 甲田由里は私と共通のコトバの使い手だったので、学校でも、通学の車中でも、電話でもよく喋りました。ほとんど甲田由里としか喋りませんでした。彼女は今まで書物だけを友にしてきたせいか、私の何倍も物知りで、私がうまくコトバにできない思いやわだかまりをうまくいい表してくれました。

――あたしは千春の舌になる。千春はあたしの血になって。

 血が薄い。血がなかなか固まらない。それはいつも危険と隣り合わせということです。生理が来ても、命がけです。ワインを注いだ薄いクリスタルグラスが歩いているようなものです。由里と私の血液型は同じO型。彼女に輸血が必要な時は、私の血を分ける約束もしました。由里と一緒に歩く時、私はいつも彼女を庇うように脇についていました。でも、彼女には臆病なところは微塵もありませんでした。運動不足から体力が落ちたり、太ったりすることの方を恐れていて、普段の生活の中でなるべく体を動かそうとしていました。

 階段を二段飛ばしで降りたり、意味もなくスキップを始めたり、児童公園のブランコに乗ったり、鉄棒にぶら下がったりして、見ている私の方がハラハラするくらいでした。

 そんな彼女には独特の人生観が芽生えていました。

――急性白血病とかになったら、早死にするけど、輸血をしながら、細く長く生きる人もいる。千春は自分がどんな死に方するか想像できる?

 私はそんなことを考えたこともありませんでしたが、「地震とか落雷で死ぬかも」と答えました。由里はニヤリと笑って、こういいました。

――どんなに健康な人だって、予期せぬ死に方をする。だから、ビクビクしながら暮らしてもつまらない。

――由里は大人になったら、何をしたいの?

――誰だってやることは同じ。一番大きな仕事は生まれてくることと死ぬこと。そのあいだに恋をしたり、子どもを産んだり、病気と闘ったりする。あたしはたぶん、子どもを産めない。産んだら、死ぬと思う。千春、子ども欲しい?

――余ってたら、コウノトリにもらう。

――自分で産まなくたって、他人の子どもをもらってくればいい。世の中には子どもを捨てる親もいるんだから。

――子どもを産まなくていいなら、恋だけすればいいんだよね。

――あたしは血が足りないから、吸血鬼になる。吸血鬼が好きな男いるかな?

――血の気の多い人とか、献血してる人とか。

 そんな話を朝から晩まで交わしていました。由里は男女の営みについても詳しく、ベッドや布団の上でどのような行為にふけるものなのか、ノートにイラストを描き込みながら、説明してくれました。

――「正常位」というのは男が上、女が下になって、顔を見合わせる一番一般的な方法。女の片足を抱え込んだら、「杵かつぎ」、両足を抱え込んだら、「釣瓶落とし」になる。女が上になるのは、「茶臼」っていうんだよ。「騎乗位」ともいう。股と股を交差させるのは「松葉くずし」と「燕返し」でしょ、お互いのお股を舐め合うのは「69」、女が四つん這いになるものには「仏壇返し」や「押し車」などがある。

――相撲の決まり手みたいだね。

――四十八種類以上あるんだよ。

 本から仕入れた知識から、男女の秘め事の細部を想像する私たちは、まだキスさえもしたことがありませんでした。

親友と交わした契約

 ある日、私は由里に自分の家庭事情のことを告白しました。父が母と私を友人に売り、自分は何処かに行方をくらましたこと。父の友人は花岡クリニックの院長で、母と夜毎、情を交わしていること。自分の養父になった花岡は近頃、私を見る目がいやらしくなったこと、などを話しました。由里がどんな反応をするか、知りたかったのです。

――その花岡という人は親子丼を狙っているんだと思う。 「親子丼ってどういう意味」と訊ねると、「母と娘の両方をいただくこと」と彼女は説明します。私は顔を赤らめ、「それは困る」といいました。

――あなたの養父は小児科でしょ。小児科の医者はたいてい、『不思議の国のアリス』の作者と同じ趣味なのよ。

――つまり、どういうこと?

――少女が好きっていうこと。本命はお母さんじゃなくて、千春なんじゃないのかな。

――嘘でしょ。年が離れ過ぎている。

――年の差なんて関係ない。あたしの伯父さんは三十も年下の女の人と再婚した。千春はその人といくつ離れているの?

――二十五歳。

――その人、カッコいいの?

――パパよりは若く見える。ママはパパよりもハンサムだっていってる。

――じゃあ、できるじゃん。血はつながっていないから、近親相姦にもならないし。

 長生きできないと自覚しているがゆえに、成熟を急ごうとしていたのか、大人の営みを斜に構えて見る由里は、若い「いじわる婆さん」のようでした。同級生は誰も由里の話にはついていけなかったでしょう。私は彼女のコトバの真意を何処まで理解できていたか、心もとなかったのですが、由里はこんなコトバを漏らしたことがあります。

甲田由里 千春の親友。難病を患うため、自分に不可能な“女の人生”を千春に託す
「あたしは千春の舌になる。千春はあたしの血になって」

――男はあなたのことを放っておかない。私は千春のように美人じゃないから、もてない。誰かに愛されたとしても、セックスをしたら、血が止まらなくなって、死んでしまうかもしれない。だから、千春はあたしの分まで恋をして。

――あなたの分も? 忙しそうね。

――そうすれば、あたしはあなたに憑依して、恋する楽しみを味わえる。いい?

 私は「頑張ってみる」と答えました。由里はきっと読書を通じて学んだ恋の手管を惜しみなく、私に授けてくれるでしょう。私は由里の身代わりになって、快楽を貪ったり、苦痛を味わったりするというわけです。

 私たちはそんな契約を通じて、友情を深めてゆきました。

(花岡を皮切りに、ジョー、ヤノケン、檀おじさま……いよいよ千春の地獄めぐりが幕を開ける。続きは1月11日発売『傾国子女』でお読みになれます。)

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