5章 「美女は、命を断つ斧」
母は父を恨み、憎み、呪っていました。私はその父を慕い、庇い、尊敬していました。
母は生理前になると、自分の半生を振り返る癖がありました。それは月に一度の恒例行事で、母は父と結婚したことを後悔し、父に呪詛のコトバをぶつけます。父は黙ってその儀式に耐えていました。反省しているのか、そんな気はさらさらないのか、一言もいい返そうとせず、父は辛抱強く嵐が過ぎ去るのを待っていました。私が思い出すのは、うなだれた父の横顔です。父は母に気づかれないように、こっそりと私に微笑を投げかけたものです。哀愁と苦笑いが混じったその微妙な表情と丸まった背中に私は初めて、男の色気というものを感じました。
その頃、私は十三歳でした。
もう胸も膨らみだし、ブラジャーをつけていましたが、父とはまだ一緒にお風呂に入っていました。父は私の体を見つめては、モデルにポーズの注文をつけるように、背筋をもう少し伸ばしなさい、とか、膝はいつも閉じていなさい、といいました。
あれは眠りが丘の家で迎えた最後の桃の節句の時だったでしょうか。いつものように父と一緒に湯船に浸かっていると、父は不意に何か思い出したように、こんなことを呟きました。
──「美女は、命を断つ斧」と昔の人はいった。それは今も変わらない。覚えておきなさい。一緒にお風呂に入るのはきょうで最後にしよう。
私はまだ自分が子どものつもりでしたが、父は私の中に大人の女が芽生えているのを見てとったのでしょう。「美女は、命を断つ斧」というコトバが意味するところはわからず、「美人の方が得なんじゃないの」と私はいいました。
──おまえは自分がどれだけ美しいか、まだよくわかっていない。パパはこれまでに何百人もの美女を見てきたが、おまえの美貌に敵う女は一人もいなかったよ。
──娘だから、贔屓目で見ているんでしょ。
──いや、そうじゃない。パパはおまえの将来が心配で、夜もろくに眠れない。
──何が心配なの? 変な虫がつくこと?
──美人に生まれて得をすることなんて何もない。誰もおまえを放っておかない。悪い奴ほどおまえを求める。ただ、ひたすらに求められ、奪われ、捨てられるんだ。
──大丈夫だよ。こう見えても、私はしっかりしてるんだから。
──おまえが男たちを袖にすれば、奴らはいっそうむきになる。
──じゃあ、どうすればいいの?
──手に職をつけ、男を頼らず、目立たないようにひっそり生きてゆくのがいいだろう。決して、自分を安売りしちゃいけないよ。千春にそれができるかな。
──できるよ。パパの娘だから。
そんな話をしたのを覚えています。
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