それから、ふたつめは、人称の問題。一人称「ぼく」の視点から描かれる小説かと思っていると、突然、登場人物の誰か(三人称)の視点で語られていく書き方に変わる瞬間がある。
小説の最後を引用しよう。「みんなが雨の音を聞いていた。/シャチにも聞こえてるかな。水の中にいるシャチにはわからへんかな。こんなにええ音やのに。でも聞こえてるな。(1行アキ)シャチにも聞こえていた」。
「シャチ」が突然主語になって、雨の音を聞く……そんな文章で小説は閉じるのだ。私はなんだか嬉しくなった。 こうした手法を「実験的」と呼ぶ人もいるだろうが、私は、ちょっと違うと思う。
いつか、どこかの風景
山下の持ち味は、とてもシンプルな文章を積み重ねて、抽象的な風景を出現させること(固有名詞はほとんど使われない)。そして、ノスタルジーをパラパラとふりかけた、山下オリジナルの小説空間を構築することである。だから、もっと気楽に読者は遊ぶべきなのだ。「人称」や「時間軸」といった言葉で説明する無粋な役目は、批評家に任せておけばいい。
それにしても、これだけ多くの人物を登場させ、過去と未来を自在にまたぎながら小説を書くのはたいへんな作業だろう。バラバラの、それぞれの要素が意味もなく繋げられるだけなら、他人の夢の話のように退屈になろう。では、山下はどんな魔法を使っているのか。
ある場面――。「ぼく」は電車に乗っている。白い杖をついた「女の子」が途中で乗ってきて、「ぼく」と話をする。「女の子」はある駅で下車する。その直後の文章はこうだ。
「電車が動いてすぐトンネルに入った。音が変わった。/トトントトン。トトントトン。トトントトン。トトントトン。トトントトン。トトントトン。トン。トト。ト。トトトトトト。トン。ト。トトトトトト。トン。/昨日の夜、雨が降ったとき、おばさんの家は雨もりがするので、しずくをバケツで受けていた。その音をぼくはずっと聞いていた」。
小説はこの後、おばさんの家の中へと展開し、「ぼく」が学校で書いた作文の話へとつながっていく。つまり、電車の中と、おばさんの家の話は「トトン」という擬音によって見事に連結されている。
山下澄人の手腕、見事というほかない。
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