冒頭のロラン・バルトではないが、彼女の不在が彼を安堵させる。自信を取り戻させてくれる。心配しなくてもいい、不安がらないでもいい、彼女は今、病院にいて、医者の治療を受けていて、だから彼女は苦しくないし、死にそうにもならないし、何より自分以外の男に触れたり、触れられたりしていないのだ……そうした種類の安堵である。そして彼は、恋ごころをかきたてられるあまり、自らにメスを入れて自分の臓物を覗きこもうとする。
一方、彼は、香奈子と一対一の濃密な関係になって向き合うことを本能的に避けようとする。これは男女の別なく、真剣な恋におちた人間には時折みられる不思議な現象であろう。彼は別の風俗嬢、ミサキとも関係を続け、ミサキを海外出張に連れて行く。むろん、香奈子には黙って。
「自信とコンプレックス」に彩られた才色兼備な女子アナ、アベマチコとの関係も然りである。かたわら、それぞれの女の人間性を鋭利な刃物で切り裂くようにして、淡々と分析し続ける。
ミサキもアベマチコも彼を好いている。恋愛感情を抱いているとさえ言える。だが、彼の彼女たちに向けた分析は容赦がない。彼女たちは彼にとって、どれほどその顔や肉体、若さが魅力的であっても、香奈子の代替にはなり得ないのだ(とりわけ、西崎のアベマチコに関する分析は、侮蔑に近いものになっている)。
彼は香奈子に向けて、「関与する」という姿勢をくずそうとしない。「関与の余地のない女には興味を抱かない」男である彼は、香奈子の生活上の面倒をみようとする。管理栄養士の学校に通わせ、授業料を支払い、生活費の援助をし、入院費用を肩代わりする。
香奈子の病状は日を追うごとに深刻になり、彼は「自分が大切に思うものから遠く隔てられていて、永遠に近づくことができないという感覚」に苛まれる。それは幼いころ、彼に「自立と信頼という概念」を教えてくれた母親から刷り込まれた感覚でもある。随所に表現される、教師だった母親と主人公との関係も読みどころの一つだろう。
恋人が風俗店や銀座の高級クラブで働き続けている限り、男が彼女を真に独占し、所有する、ということは不可能なのであり、他の男のにおいのする場所から引き離すためには、男は彼女に関与し続ける必要がある。そう考える彼は、自らの方法にしたがって、ほぼ盲目的にそれを実行に移す。そして、精神のバランスをくずしてしまうまで不安に怯え続けていたこの主人公は、最後、香奈子の死によって初めて、残酷にも解放されていくのである。
恋愛小説であることはもちろん疑いようがないし、さらに言えば、村上龍が書いた「ほとんど珍しいほどの」純愛小説、とも言えるのかもしれない。だが、私はこの作品を「恋愛の渦中にある五十代男性の、優れた自己分析の書」として読んだ。本書の最大の魅力は、そこにこそあるような気がする。
世界に向けた鋭い眼差しと解析能力。終始、厄介な現実問題に取り囲まれながらも、自分の力で生き抜いていこうとする精神の強靭さ。さらにそこに、ふだんはあまり顕在化されない、センチメンタルでロマンチックなこの作家の一面と、「老い」「衰弱」「死」といったものを見据えざるを得なくなった年代の人間が抱え始める幾多の感情を惜しみなくちりばめつつ、村上龍は「西崎」という男の内面を丹念に掬い取っていく。
女との関係や人生は金融市場に似ている、という考え方に基づいて表現される、村上龍ならではの文章にも惹きつけられる。
『よい投資家は常に疑いの目で市場を眺めていて、最悪の事態を想像する癖がついている。(中略)いやな予感が現れたら、対処を考えて、何とかなるという楽観を併せ持つようにしなければならない』
『市場は多幸感と過熱のあとに暴落が起こりやすい。恋愛において、多幸感や過熱や暴落は何を意味するのだろう。信頼の膨張と崩壊、関係の縮小と破綻ということだろうか。どんなに優れた投資家でも市場の暴落を予想するのは不可能だ。ただし多幸感への警戒心があり過熱の危険が察知されている間は、決して市場は暴落しない』
『投資家は、常に上値の限界を考えるくせがついている。幸福はいつまでも続くものではないと骨身に染みて知っているのだ』
「希望は必ず外側にある」と彼は本書の中でも書いている。その通りだ、と私も思う。こちらが近づいていかない限り、希望も、ものごとも、恋も、喜びも、永遠に遠いのだ。
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