さて、私と村上龍のことを少し書こう。
彼と私は同年齢である。かつて私たちは「遊び仲間」だった。まだ二人とも二十七、八歳のころのことで、彼が『限りなく透明に近いブルー』で芥川賞を受賞してから、数年たっていた。たまたま同じ街に暮らしていた縁で知り合い、テニスに興じたり、飲みに行っては深夜までカラオケを楽しんだりしていたのだ。
私は彼の作品の熱心な愛読者だったし、ちょうどそのころ読んだばかりの『コインロッカー・ベイビーズ』に感動し、この年若い作家は天才だ、と確信していた。だが、彼と会っていてもそんな話はおろか、小説の話はほとんどしなかった。私たちはテニス・コートを走り回って汗をかき、居酒屋で冗談を飛ばし合って酒を飲み、カラオケに繰り出して、先を争うように当時はやっていた歌を歌いながら大騒ぎしていただけだった。
あれから三十数年の歳月が流れた。こうして自分が、村上龍の作品の解説文を書いていることが信じられないし、なにより、彼も私も昨年還暦を迎えたという事実が信じられない。
信じられない、というのは、信じたくないからではない。三十数年前の記憶が未だ鮮明である分、あのころから現在まで流れた時間の密度の濃さが途方もなくて、なんだか実感できずにいるだけだ。
つい最近のことだが、新聞のインタビューを受けた村上龍が、「おれも老いた」というような発言をしているのを読んで、私は思わず胸がいっぱいになった。
彼が「おれも老いた」と言うのを聞いて、どれだけの同世代の読者が共感し、力づけられることか。老いは、共に茨(いばら)の道を歩んできた他者と共有することによって初めて、意味をもつのではないかと私は思う。
読者は作家に、いつまでも若くあってほしい、若い世代に受け入れられるものだけを書いていてほしい、などとは、決して望んでいない。なぜなら、読者もまた、作家と共に年齢を重ねていくからである。見つめるものが変遷していくからである。
その意味で、村上龍はきちんと誠実に、実人生を生きてきた作家だと私は思っている。真の読者が望むのは、実人生を生き、それを作品に投影させていくことを惜しまずにいる作家の作品なのだ。
昨年暮れに刊行された彼の作品『55歳からのハローライフ』(幻冬舎刊)にも、目を見開かされた。「おれも老いた」と語る村上龍は、ここにきて早くも村上龍らしい手さばきで、老いていくことの孤独、悲しみ、喪失感を作品の中に織り込み始めている。
言うまでもないことだが、村上龍が描写する「老い」には官能があり、恋があり、欲望がある。これまでの文学で扱われていた「老い」とは、一味も二味も異なる。
誰もが顔では笑いながら、内心、不安いっぱいに、眉をひそめて見つめている自らの「老い」と「死」。ほんの少し前までは、まだ先にあって、ふだん目にもとまらないものだったはずなのが、今は老いも死も、すぐ目の前にある。
誰もが、同時代の作家が何を考えているか、何を書くのか、注目している。自身の老いから目をそらそうとせず、実人生をもくもくと生き、作品に投影させる作家をひそかに求めている。そして村上龍はいつだって、そんな作家の一人であり続けるのである。
二十代の若さで彼と知り合い、小説の話なんか何もしないで、ただ無心に遊び、飲み続けたことが、今はしみじみと懐かしい。本当に、あれから途方もなく長い歳月が過ぎた。そして、六十代を迎えた村上龍が、人知れずもらす心のため息のひとつひとつを残らず聞きとろうとするような想いで、私は本書をゆっくりと、時間をかけて読んだ。
読んでいる間中、幸せだった。
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