「恋の対象というのは、常に不在なのではないか」……そう書いたのは、フランスの哲学者、ロラン・バルトだったと思う。
恋する相手が不在であれば、恋ごころはかきたてられる。恋人が遠い外国に行ってしまったり、重い病で入院していたり、その他、様々な事情で触れたいと思う時に触れられず、話したいと思う時に話せなくなると、私たちの恋はより深度を増す。恋人に向けた想いがいっそう強まる。
恋しい人が今ここにはいない、という不在の感覚。それこそが私たちの中でいっそう、恋人を聖なるものに仕立て上げ、切なさを倍加させていくことになるのだろう。
本書の主人公(語り手)である西崎は、五十歳を少し超えた年齢に設定されている。彼は「外資で鍛えられたインディペンデントのエリート」投資家であり、二度目の結婚をした七つ年下の妻との間に二人の娘がいる。
夫婦仲はよく、娘たちはすくすく育ち、家庭は円満で何の問題もない。彼は、家庭生活がうまくいっていないと、いい仕事ができない、ということを骨の髄までわかっている。したがってどんな場合でも、そのための努力を惜しまずにきた。
彼は典型的な「富裕層」である。家族でハワイのコンドミニアムに行き、優雅なバカンスを過ごすかたわら、定宿にしている都内の高級ホテルに風俗の女性たちを呼び、高価なシャンパンをふるまい、ファーストクラスを利用して出かける海外出張には、気にいった女性を同伴する。世界中、どこにいても美しい女たちと共に最高に美味な料理を口にし、極上のベッドで眠り、自分が望む快楽をまんべんなく味わうような生き方をしている。
失意や悲しみ、後悔など、通常、人間が生きていくうえで遭遇する感情の波も、彼は素早く頭の中で精査してしまうことができる。ネガティブな感情に囚われて、自分を見失うことはない。どんな情況に陥っても、前に進むための方法と対策が、彼の中にはあらかじめプログラミングされている。
それは厳しい金融の世界に長く生きてきた男が、生き延びていくために培(つちか)ってきた力であるということもできよう。だが、ある意味でこの男は、世間の一般通念からすれば徹底して「鼻持ちならない男」と言うこともできる。
とはいえそれは何も、彼が経済的に恵まれ、円満な家庭生活を送りつつも、家庭に縛られることなく、のびのびと仕事で才能を発揮し、しかも日毎夜毎、美女をはべらせて豪遊している男だからではない。彼が読み手に与える「鼻持ちならない」感覚は、そんなありきたりのところにあるのではなさそうだ。
あらゆる負の感情を理性的に合理的に処理し、昇華してしまう際立った冷静さ、知性、強靭さ。その精神のスーパーマンぶりにこそ、読み手がかすかな違和感を覚えるよう、この作品は(おそらく)意図して書かれている。ほとんどの人間は、この西崎のようには生きられない。どうやればかくも冷静沈着でいられるのか。ビジネス同様、人間関係や恋愛においても勝者であり続けることができるのか。凡人にはとても無理だし、かなわない。絵空事ではないか、とさえ思わせる。
そして、まさに読み手に感じさせるその小さな違和感こそが、この長篇小説を読ませていく原動力の一つになっているように私には思える。なぜなら、そうした負けを知らぬ完璧な成功者である男が、香奈子という風俗嬢に恋をし、悩み、苦しみ、迷い、強い不安に苛まれるからだ。
しかもそれは、ただのありふれた恋ではない。文字通り、彼は彼女に溺れる。誠心誠意真剣に向き合ってなお足りないほど、相手のことが気になる。そして彼は、その恋を飽くことなく語り、分析し続ける。語って、分析すること以外、もはや自分を支える方法は何もないのだ、と言わんばかりに。
彼は香奈子に溺れる自分の中に、かつて経験しなかったたぐいの不可解な感情が生まれ、自動制御装置が働かなくなっていることに気づいて、次第に不安をかきたてられる。彼の語りには全編、その不安がまとわりついている。
いかなる思考回路を経由させても、その不安は消えない。それどころか、日を追うごとに情況は深刻になり、不安は倍加していく。そして皮肉なことに、彼が唯一、わずかに解放される時があるとしたら、それは、1型糖尿病という病気を抱えて生きている香奈子が、入院している時だけなのだ。
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