小説事始め、作者はまず、『日本史論文の書き方』という本を買ったという。これで室町時代を書くのにどれだけの本を読めばいいのか、見当がついた。中世史の講義に東京から姫路まで約5年、月1で通い、「五重塔を自分の手で解体できなければ、書けない」と思ったからこそ、建築や文化財の専門家を訪ね、備中国分寺の建築現場にも足しげく通った。現役の宮大工に道具の使い方から、「規矩術」という、作者曰く「高等数学」の教えを請い、パソコンをマスターしたのは80歳だ。
そこに悲壮感も使命感も全くない。
「取材は楽しかったですよ。いつまでもやっていたかった。未知なるものとの遭遇といろいろな方との出会いと、古いものにまつわる空気感が好きでした」とにこやかに笑う。
「ほぼ口コミ」で10刷2万部という異例のヒットとなったきっかけは、NHK「ラジオ深夜便」の出演だが、著者の語りから漏れる“何か”が中高年層を中心に、本書へと人々を引き寄せることとなった。
舞台は中世、室町中期。瑠璃光寺五重塔を建てた大工たちの物語を軸に、新田義貞の末裔である姫君たちのとした運命が織り交ざる。主人公である若き宮大工・左右近は「13歳で亡くなった、友人の弟の名」だ。資料館で「此のふでぬし弐七」と墨書された巻斗を見た瞬間、宮崎の平家部落・椎葉から来た若者の顔が浮かんだという。
物語はこう始まる。
「人は流転し、消え失せ、跡に塔が残った。塔の名を瑠璃光寺五重塔という。(中略)塔は今日も中空にのびのびと五枚の翼を重ね、上昇の姿勢を保ち続ける」
凛とした文体は、美しくみずみずしい。冒頭の数行でふっと瑠璃光寺五重塔へと誘われ、天へと伸びる優美な屋根の曲線をうっとりと思う自分がいた。
明瞭で簡潔、どこにも媚びない硬質な筆致は若い世代には馴染みにくいかもしれないが、対象の本質にすっと迫る表現こそ、室町時代に生きた人々の、呼吸そのものではないかと思えてくる。
登場人物の誰もが、すばらしく魅力的だ。人間の心根の清らかさと、人や自然への敬意と魂を磨くような生きざまと、何より山里に生きる女たちのおおらかさがいい。作者は「立ち返るのは孤独。それはすごく豊かなもの」と言う。寄りかからず誰のせいにもせず、人は孤独であることを自明のこととし、人とつながりあうことのささやかな美しさが全に満ちる。人々を魅了させた根っこはこの辺りにあるのだろうか。
「1作1作書くことで、自分の還りつく地点まで成熟して行って、ぽろっと木の実が落ちるように完熟したい。だから今、まさに成長期なんです」
このような女性が私たちの前にいること、作品としてその世界を存分に味わえることは希望であり喜びだと思う。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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