書くとは、書き得ないことを体得する逆説的な行為である。さらに、文字を通じて、文字では表わし得ないものとつながることでもある。この素朴な、しかし、どこまでも深まる公理を、あるとき少女が発見する。同時に彼女は、見る、あるいは聞くといった素朴な行為が、単なる生理的反応ではなく、時代の、造られた常識を根本から覆す力をもっていることを知る。彼女は、書く、見る、聞くことを通じて世界に小さな、しかし、確かな革命を起こそうとする。現象の奥に実在をかいま見る者を「見者(けんじゃ)」という。彼らはしばしば時代に病者として虐げられた。この作品は、主人公の自伝であり、沈黙を強いられた見者の遺言として語られる。
少女が小学5年生だったころの回想から物語は始まる。主人公は「大栗恭子」という。舞台は、海塚(うみづか)市と呼ばれる小さな地方都市だ。この町はあるとき災害によって人間が暮らすことができなくなる。この場所は名前の通り海の町だが、主人公は魚を食べない。母親が食べさせないからだ。母親は人前では地元の野菜を買うが、ぜったいに娘の口には入れさせない。子供には「寄付」をするといい、それを捨てていた。生徒たちは学校で「ふるさと」とは何であるかをたっぷり詰め込まれ、考える力を奪われてゆく。さらに、声高らかに「海塚讃歌」を歌うことを強いられる。
ここに震災後の被災地の今を重ね合わせることもできるのだが、この作品の射程はそこに限定されない。悲劇というには、あまりに切実な出来事は日本だけでなく、世界のあらゆる場所で、また、現代だけでなく、さまざまな時代でも起って来たからだ。この作品はむしろ、被災地の問題は、その現場で起こっているのっぴきならない出来事であるがゆえに、他の場所で生起する、やはり抜き差しならない事象と強く呼応することを、はっきりと示してくれている。
厄災から8年経った海塚では、突然、それもつづけざまに人が死ぬ。最初に命を奪われるのは子供たちだった。恭子の学校では、中世期に蔓延した伝染病に冒されたようにクラスメイトが亡くなって行く。多くの子供たちはそれを悲しまない。精確にいうなら、悲しまないのではなく、悲しめなくなっている。
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