現在は明瞭なる永遠の証左
ある女の子――名前はアケミという。おそらく彼女は自由に外で遊ぶことができなくて、太めだった――が亡くなったあと、葬儀で父親は娘が亡くなったのは悔しい、しかし「運命」だったと思いたい、一生納得はできないが、と語り、こう続ける。
「アケミは、海塚の子として、永遠に海塚と共に生きていると私は思いたい。アケミを、この町の一部として永遠にこの町に刻み付けさせて頂きたい、と私はお願いしたいのです。皆さん、どうでしょうか?」
すると「いいぞ!」「勿論だ!」「海塚!」と声が上がり、満場の拍手が起こり、会場は熱気に包まれる。このときのことを主人公は「喉が痒くなって、私は何度か咳をしました」と記す。子供の肉体は、演じられた哀悼を受けつけない。少女が非情なのではない。むしろ彼女は、誰よりも死者となった同級生の存在を身近に感じている。この作品では死者はときに、生者自身よりも生者に寄り添う者として描かれる。
父親が娘の死を悔やむ心に偽りはない。しかし父親は、いつの間にかもう、悼むという営みから隔離されている。悼むとは、多くの人に記憶されることではなく、むしろ、孤独を感じる心にだけ生起する営みであることを忘れさせられている。また、あるとき教師は教室で、生徒たちにむかってこう言った。「新学期が始まってから今日までに、7人の尊い命が天に召されました。しかし彼らの命は決して消滅してしまったのではありません。彼らは常に我々と共に在る。この雨の音や風の音の中に、常に彼らの声を聞くことが出来るんだよ」。
瞭然と語られるところにこそ、偽りがあることをこの作品は教えてくれる。
作者にとって肉体は、魂のもっともはっきりとした証しとして認識される。現在は明瞭なる永遠の証左として描かれる。肉体を軽んじる者が語る魂など信じまいとする覚悟が、この作品を根底から支えている。身体を描きながら、情感の発露と静謐を深部まで、また、まざまざと表現できる作家は現代では稀有だ。優れた小説はいつも、読者に、同時に複数の感覚を働かせることを求める。読者はそのことをはじめのページから経験するだろう。ことに最後の主人公の独白は圧巻だ。
傑作である。近年の日本文学におけるもっとも高次な、また豊饒な果実の1つである。
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